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極小コミュニケーションと生活スタイルと人間ラヴのお話

どうも、じゅーんです!皆さん、マイクロコミュニケーション、楽しんでいますか!このエントリは「マイクロコミュニケーション」をテーマに書いてみます。2011年の後半は、ひとつひとつは小さいマイクロコミュニケーションが、だけれど無数に連なって大きなうねりとなっている、そんなふうに感じるシーンが何度かあったので、感覚を整理したいと思ったのです。

ここでいう「マイクロコミュニケーション」をどう位置付けるか

定義をなるべくパキッとさせておいた方が、以降のお話が楽しくなるはずなので、今回は思い切った定義を置いてしまいましょう。ここでは「マイクロコミュニケーション」を「文字入力を要せず2クリック(2タップ)以内の操作で完了するユーザ間のやりとり」と、してみます。具体的には、以下のようなものについて考えたくて、この定義を置いています。

  • はてなスター
  • Twitter の Favorite 及び ReTweet
  • Facebook の Like 及び Poke
  • Tumblr の Reblog 及び Like
  • Flickr の Favorite
  • Instagram の Like
  • Path の Facemarking 及び「足あと」 (どっちも、なんて呼んでいいかは、よく分かっていないので、勝手に)

ええと、呼称について、海外のサービスの場合は「そのサービスを英語表示にしているときのもの」を採用しています。ぼくの慣れているものに合わせて書いています。あとあと、「その定義なら、もっと別の言葉で呼んだ方がいいよ」という意見があれば、ぜひぜひ教えてください。

ライフスタイル

次いで、ライフスタイルのお話を、ちょっとさせてください。サンプルは自分「大和田純」です。

平日はだいたい、お仕事をしています。お仕事以外で誰かと会って交流する機会は、そんなに多くありません。だけれど、人と交流すること自体はとても好きで、いくつかの、いわゆる「ソーシャル系」のサービスを並行して愛用しています。マイクロコミュニケーション機能を、積極的に活用します。

時間の使い方が下手で、あんまり、まとまった時間を作って、人との交流に充てることができずにいるので、ちょっとした空き時間なんかにお手軽に交流を楽しめるマイクロなソーシャル系サービスに、救いを求めています。Twitter の Timeline や、Facebook の News Feed もそうですし、Tumblr の Dashboard も、時間のあるときに、好きなところから参加し、好きなところで離脱できるので、気楽で助かります。

自分みたいなライフスタイルとマイクロコミュニケーション

細切れの隙間時間で楽しめるマイクロコミュニケーション、楽なので、ついつい頼ってしまいます。「あの人とあの人と」「この日のこの時間に」「この場所で」「こんなことをして遊ぼう」なんて予定を立てることも、もちろんありますが、ちょくちょくというわけにはいかなくて。

では、ここで思考実験です。

  • [A] 1ヶ月に1日、予定を合わせて、その日は「朝から晩まで一緒にいて楽しい時間を過ごす!」と決めて過ごす相手
  • [B] 毎日、なんかしらの Tweet を定常的にお互いに1個以上は Favorite する相手

[A]と[B]の2種類の相手がいたと仮定して、1年後に、より親密になっているのは、どちらでしょうか。[A]の相手とは、12日分の楽しい思い出があることでしょう。[B]の相手とは、お互いに365個以上の Favorite した Tweet があることになります。

ぼくが2011年に思ったのは「ある相手のことを、毎日少しずつでも意識させられると、関係に無視できないレベルの影響があるなあ」ということでした。皆さんも、試しに想像してみてくださいな!

ヒューマンラヴ

マイクロコミュニケーションが、人と人の関係性に与える影響を考えてみるとなかなかおもしろくて、去年の12月当たりから、ちょっとずつ考察しています。というか、これまでにも「コミュニケーションがマイクロ化する流れ」はずっと感じていて、このブログでも、何度かその手のお話は書いています。関連しそうなものを、いくつか並べておきます。

それから、はるな様のあるいは画面越しの優しさについて – インターネットすやすやも、ぼくにとってはリアリティたっぷりで、今回のお話にも関係すると思うので、参照しておきます。

「そう、いろんなメディアが一気にかぶってくる感じ。電話はなんだか、許されなくない?なに今あなたわたしと電話しながらFacebook見てたの!?キーッ!って、相手によってはなりかねないじゃん」

あるいは画面越しの優しさについて – インターネットすやすや

Web を通じた… いや、もう2012年ですから、スマートフォンアプリのことを鑑みて、もっと広い言葉で表現するべきですね。情報技術を通じた、時空を超えるコミュニケーションの帯域はどんどん増し、流通するコミュニケーションはどんどんリッチになっています。ブログが世に出たばかりの頃は、学級の中で「もっとも声の大きい人たち」の居場所しかなかったサイバースペースにも、今では「声の大きい人たちの主張を聞いて上手にうなずいている人」の居場所も、じゅうぶんにあります。「うなずく」という行為によっても、居場所をつくることができるまでになりました。

そうして、それらの経路は、情報を流通させるだけでなく、人と人の関係性に大きな影響を与えるまでに、なってきたと感じます。たとえば、ぼくがほとんどアクセスしていないソーシャル系サービスをメインに楽しんでいる人たちとは、趣味が合うかどうか、なんてパラメータとは無関係に、疎遠になりがちです。このことから「どのソーシャル系サービスを使うか」という意思決定が「どの地に住むか」といったレベルの決定に近付いていると言えるでしょう。「趣味は合うけれど、遠くに住むようになって、疎遠になった」とまったく同じ形の現象だと思います。

現代の日本において「交通機関を利用する気は、まったくない」と頑なに決めている人とは、交流がむつかしいと思うのです。一緒に旅行に行ったり、お出かけしたり、できない。「交通インフラを利用する」という時代を受け入れる人とそうでない人との間に、境界ができてしまいます。この「交通インフラ」を「情報インフラ」に置き換えたときに何が言えるかは、想像に難くないでしょう。これは、手段がせいぜい「電話」か「メール」かくらいしかなかった頃とは、まったく状況が変わってきているのですよ。

人は、一度でも「楽」を知ってしまったら、大きくそっちに流れていく。そして戻ってくることはない。このまま「マイクロコミュニケーション」が加速する方向に人々が流れていったときに、人と人の関係はどのようにつくられていくのだろうなあ。そのときに、ぼくは、誰と、どんな人と、一緒にいることを、選ぶのだろうか。

…なんてことを、とりとめもなく、思いつく度に考えてきたのですが、「Path 2.0」の登場によって、ぼくから見える景色も大きく変わりはじめていて、色々と無視できない気持ちになって、このエントリを書くに至りました。

まとめ

女子力系ライターの方におかれましては、以上の内容をリバースエンジニアリングして「ソーシャル系草食男子の意識に潜り込む7の方法」ぐらいの記事を書いたらいいと思います!

すみません、ぜんぜんまとまっていません…!が、どこかのタイミングでは、このことについて真剣に考えなければならないタイミングがくるはず、と思って、現状の感覚を dump させてもらいました。このトピックに興味がある人は、ぜひぜひ話しかけてくださいね。お話しましょう。まずはマイクロなところから話しかけてもらえると助かります!なーんて!

〜未完〜

「関西Ruby会議04」でトークしてきました

ブロギングがすっかり遅くなってしまいましたが…!

2011年11月11日、12日と2日間に渡って開催された関西Ruby会議04の、2日目に参加してきました。身体の空き具合が足りなくて、1日目と、2日目の午前は参加できませんでした…残念!とてもよいトークがあったとのことで、聞けたらよかったなぁと、悶々としてしまいます。

Rubyから教わったものづくり

というタイトルでトークさせてもらいました。なんというか、今、まさに創業期を過ごしている自分の、近況報告そのものになりました。じっくりとこちらを見て聴いてくださった皆さん、ありがとうございました!トーク中、色んな人たちと目が合ったように思います。また、トーク終了後の会場や、懇親会なんかで、色々と話しかけてくださった皆さん、ありがとうございました!ぼくも、新たな宿題を見つけることができました。

ふつうのプログラマの生きていく道

このトークの出発点は「どうやら、プログラマとして、自分は、特に突出した能力を持たないようだ」と気付くところに、あります。そんな自己認識の中で、いかに楽しく、プログラマとしての日々を生きていくのか。10月に、スタートアップに身を移した自分の、考えたこと、行ったこと、大事にしていること、失いたくないこと、なんかを中心にお話させてもらいました。

スタートアップの会社で「プログラマ、自分だけなんですよ」なんてお話すると「おっ、じゃあ CTO ですか!」なんてお言葉をいただくこともあるのですが、やあやあ、とても、自分に似合っている役職とは思えないなあ。この時代の、このタイミングだったから、自分はこの船に飛び乗ろうと決意することができた。様々な恩恵とタイミングに支えられた船出だったと思います。

やっぱり、Ruby on Rails ってのは、すごくて、Rails 以前に require “cgi” しながら Web アプリケーションをつくって動かしていた頃を思い出すと、とてもじゃないけれど、これから動き出す事業の営みを支えるアプリケーションの開発を自分ひとりで担当しようなんて、思えなかったはずです。

そうして、いわば「ゆとりの世代」として、Rails があれば Web アプリケーションの開発はなんとなくこなせてしまう自分は、その「ゆとり」の時間をどう活用して、活路を見出すのか。そんなお話を軸に、自分の中でのテーマを「Stage of the ground」として、楽しくトークさせてもらいました。

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お礼

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この度、素敵な場にお招きいただき、また、トークの機会をいただき、ありがとうございました!関西Ruby会議04の実行委員の皆さん、場の運営や、発表者のケアなど、お疲れさまでした!おかげさまで、気持ちよくトークすることができました。

また、あの時間をご一緒させていただいたすべての皆さん、どうもありがとうございました!次の近況報告のときにも、胸を張って自分の日々を話せるように、これからも過ごしていきたいと思います。

デザイン思考について今のぼくが思うこと

デザイン思考が世界を変えるを楽しく読んでいます。Tim Brown 先生の教えに耳を傾ける。

発表資料作成におけるデザイン思考

ちょっとした、思考の訓練をしてみましょう。

「発表資料をデザインする」と聞いたとき、どんな作業を思い浮かべるでしょうか。もしかしたら、文字の色やサイズ、プレゼンテーション作成アプリのテーマのどれを選ぶか、どんな画像を使うか、なんてことを想像する場合が多いのではないでしょうか。

最近は、発表の最中に「Twitter のアカウント名は @hogehoge です」と言っているのをよく見かけるので、じゃあ、ここで考えてみましょう。あなたが、あなたの発表資料の中で、たった一度だけ Twitter のアカウント名を表示して紹介できるとしたら、発表のどの部分に入れるでしょうか。

発表の冒頭で言いますか。発表の途中の、なにかのお話の流れの中で言いますか。発表の最後に「誰々が発表しました」という形で言いますか。

この、ちょっとずつの選択の違いによって、聴衆側のアクションが、ちょっとずつ違ってくるはずです。あなたの選択のカタチは、あなたが望むことのカタチに近づけていますか。

思考停止しないこと

こう考えてみると、デザイン思考というのは、とことん「思考停止しないこと」なんじゃないかなぁと思いました。「みんながそうしているから」とか「そう教わったから」というのではなく、とことん「Why」を考えることなのだと思います。

ただ、すべてについてこれをやろうとすると、1日があっという間に終わってしまいます。まずは少しずつ、身のまわりのなにかを見つけては「これって、なんでこういうカタチになっているんだろう」と考えるようにしてみると、自分がなにかを作るときにも、発想を柔らかくできるのではないかと思います。

そんなふうに「モノのカタチ」について考える練習をしようと思ってみたときに、種子のデザインは、とてもおもしろい絵本でした。色んな植物の種のカタチと、そのエピソードを読みながら「へぇ、こういうカタチになっていると、こういうことが起こるのか!」と楽しみながら読むことができます。

種子のデザイン

チームづくりとチームの規模について今のぼくが思うこと

チームづくりとは、誰かをそこにつれてくることじゃなくて、今そこにいる人たちでどんな楽しいことができるか、って、今そこにいる人たち全員で考えることだと思います。

考えなしに「人を増やす」行為は、チームをつくるどころか、チームを破綻させる危険性すら有していると言えます。

うちのチームは大きいんだ、お前は簡単に「全員で」なんて言ってくれちゃうけれど、そんなの、むつかしいよ。と感じるのなら、あなたが感じる「この人数なら、全員でやれるかも」の人数が、あなたがチームをチームの姿として保てる、許容人数なのだと思います。

たぶん、ぼくのチームに対する「円」の直径は「3~5人」くらいです。もし、何かのきっかけで集まった人々がいて、たまたまそこで、ぼくが、年齢によってか、経験したプロジェクトによってか、最もパワーがあるかのように見えてしまうシチュエーションがあって、リーダー的なものを担当することになったとして、ぼくが「がんばります」とちゃんと言えるのは、この円の範囲をはみ出していないときだけ、です。そうじゃなければ断るか、別の形に変えてから、引き受けます。

ここまでの主張がそこそこ当たっていたとして、じゃあ、もうすでに大きくなってしまっているチームは、目をつむって崩壊を待つしかないのでしょうか。いえいえ、不安に気づけたのなら、そこからが勝負でしょう。不安と出会えたなら手をつなごう。

むつかしい問題に真っ向から挑んで撃破できるのは、一部の恵まれた人たちだけです。ぼくたち凡人は、むつかしい問題を、簡単な問題に捉え直して戦うべきです。ニンジンは食べられないって?そいじゃあ、すりおろしてハンバーグに混ぜておくね。このあいだ食べたとき、おいしかったもんね。

大きなチームは、いくつかの小さなチームに分割しましょう。みんなが「あっ、このチームなら、自分も声を出しやすいな」と感じられるサイズを探しましょう。つまり、リストラクチャリング、Re:structuring、再構成。とても前向きな考え方なのに、カタカナ4文字で「リストラ」と書かれると「個人の首切り」だけに読めてしまうのだから、悲しい定着です。よいものを悪いように定着させてもぜんぜん得をしないので、よい子のみんなは、好きなもののこと、好きな人のこと、しっかり「好き!」って言おうね。

そうして小さなチームがいくつか生まれたとき、それらをどう連携させるかは、また別のお話です。今回は言及しないことにします。

さあ、あなたは、どんな「楽しいチーム」をつくる?

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Photo by koichiroo

「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」を読んだ

最初から最後まで、不思議な刺激を受けながら読みました。読書メモです。まずは、プロローグの一部を引用します。

構想力が大事になるというのは、このような文脈においてだ。遠からずかつての夢の完成形を目撃してしまう以上、50年前の夢=ビジョンに代わる新たな夢=ビジョンを、私たちはこれから構想していかなければならない。ジョブズやシュミットからバトンを受け取らねばならない時に備えなくてはならない。それはそう遠くない将来に生じることだ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.9) プロローグ「構想力、想像力」

この本が世に出たのは、2011年3月のことでしたが、ぼくがこの本を読み進めている途中に、その「バトンを受け取らねばならない時」をリアルに感じる瞬間が訪れました。2011年10月5日、スティーブ・ジョブズが亡くなったからです。

点と点がつながっていく感じ

本書を読んで、自分の中に「点」として存在していたいくつかのものが、意味のあるつながりをもって感じられるようになりました。この感覚は「パターン、Wiki、XP」を読んだときに感じたものと似ていました。「それと、それと、それが、つながるのか」という感覚です。どちらも書名が「3つの名詞の羅列」であることも共通していますね。おもしろい。

パーソナルコンピュータ、カウンターカルチャー、宇宙船地球号、Whole Earth Catalog、全体性、グローバル・ビレッジ、インターネット、複雑系科学、ネットワーク科学、アソシエーション、コミュニティ、コミューン、Google、Apple、ソーシャルウェブ、デザイン思考、フリーミアム、Twitter、Facebook、人間讃歌。これらのキーワードで、あったり。

スティーブ・ジョブズ、エリック・シュミット、クリス・アンダーソン、ティム・オライリー、ローレンス・レッシグ、アラン・ケイ、スチュアート・ブランド、ケヴィン・ケリー、アルバート=ラズロ・バラバシ、リチャード・ワーマン、ドナルド・ノーマン、マルコム・グラッドウェル、クレイトン・クリステンセン、マイケル・ポーター、ティム・バーナーズ・リー、ビズ・ストーン、ラリー・ペイジ、セルゲイ・ブリン、マーク・ザッカーバーグ。といった人物たちで、あったり。

ひとつひとつ、ひとりひとりは、なんとなく「知っている」くらいのものだったりするけれど、本書の中では、これらの間にある「関係」や「つながり」までを含めて立体的に描かれていて、とてもワクワクしながら読みました。

ところで、余談ではありますが、著者の池田純一さんは「あとがきに代えて」と冠した「ウェブ時代に本を書くということ」の中で「本にしちゃうと立体的に書けない」といった旨のことを言っているのですが、それでも読者であるぼくが立体感を感じ取ることができたのだから、ストーリーってのはおもしろいと思います。

ウェブの情報構造はハイパーリンクが前提であるため、その構造は立体的だ。(中略) ウェブ時代に本を書くということは、この3次元以上の繋がりからなる情報構造をいかにして平面に射影するか、最も効率的な射影方法はなにか、その切り口を作ることなのだろう。そして、この本の場合の切り口は「アメリカ」であった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.309) ウェブ時代に本を書くということ

読書メモ

ユーザーからのフィードバックが常識となった現代から見れば当たり前のことだが、サイクル=循環に基づいたビジネスの見方はそれほど古い歴史をもつものでもない。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.36) 第1章 ウェブの現在「複雑系科学」

自分の感覚とはギャップがありました。古くからあるものだと思っていました。

ネットワーク科学の第一人者であるアルバート=ラズロ・バラバシは、パタンではなく「ライム(音韻)」という表現を好む。パタンは視覚的なものを連想させるが、人々の行動類型は不可視であるがゆえに、たしかにライムと呼ぶほうが適切かもしれない。ライムという表現は、また、重ねあわせによって異なるライムを生み出すことも想像させる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.39) 第1章ウェブの現在「ネットワーク科学」

おお、バラバシ先生の考え方、おもしろい!パタンじゃなくてライム。ライム・ランゲージ!セッションできそう!

その協働のあり方に次代の生産様式をベンクラーは見出す。継続する協働である以上、人々の参加動機は、全くの利己的動機でもなければ、全くの利他的動機でもない。互いに得するwin-winの関係を期待するところにある。そして、その期待が実現することを参加者が実際に経験することで、協働関係は社会的事実として強固なものになっていく。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.46) 第1章 ウェブの現在「アーキテクチャ法学者たち」

「Wikipedia」や「Linux」の発展を身近なものとして感じている自分にとっては、すんなりと受け入れられる記述でした。すでに強固なものになってきた、と過去形で感じているくらいです。ところで格差と若者の非活動性について (内田樹の研究室)というエントリは、

今の日本社会に致命的に欠けているのは、「他者への気づかい」が「隣人への愛」が人間のパフォーマンスを最大化するという人類と同じだけ古い知見です。

格差と若者の非活動性について (内田樹の研究室)

と、締め括られていましたが、こういった感覚が「次代の生産様式」なのか「古い知見」なのか、どっちなんだろうって興味を持ちました。考え自体は古いけれど、行動に落ちるまでになってきたのが近年、という整理になるのかな。

一方、ブランドは、そうした意匠ではなく、意匠を含む文化現象を生み出した装置、いわばカウンターカルチャーの「精神」の方により強く関心を寄せた。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.72) 第2章 スチュアート・ブランドとコンピュータ文化「歴史的場面の目撃者」

LSDやテレビのように、何であれ、精神的拡張や一体感をもたらすようなツールにブランドは強い関心を示すようになった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.94) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「宇宙から見た地球」

66年には、「宇宙から見た地球の写真」の公開をNASAに求める運動を起こした。これは、ブランド自身がLSDのトリップ経験から地球の丸さを鋭敏に感じてしまったことが発端だった。この運動は「宇宙船地球号」を提唱した、デザイン科学者であるバックミンスター・フラーの発想に触発されたもので、地球が球として一つであることを知れば、人々は惑星レベルで物事を捉えるようになると思ってのことだった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.94) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「宇宙から見た地球」

うまく言えないのだけれど、ここ、すごく引っかかりました。ブランドが「意識の拡大」にずっと興味を持っていた、というのが気になります。おもしろい。自分の場合を考えてみると、2004年くらい、研究室に配属された直後に、この世界の「べき乗則」を知ったり、mixiをクローリングすれば社会の形を把握できるのでは、と考えたりできるようになって、確かに、自分にとってまったく新しい視座を手に入れて、軽く狂ったように興奮気味であったことを思い出します。その感覚に近いのかもしれません。

当時の若者の典型的な不安は、大量生産/大量消費を支える大企業という官僚制の中で一つの部品として生きることに対する不安であり、冷戦の進行の中で徐々に現実味を帯びてきた核戦争による人類の破滅への不安であった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.87) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「ヒッピーカルチャー」

自分は2011年の日本に身を置きながら核のこととか心配していないし、そもそも考えないようにしているけれども、前半の半分には強く共感します。ヒッピーの人たち、そうだったのですね。

フラーは、comprehensive designという考え方を提出し、デザイン=設計の際には、全体を見渡した上で、最小資源で最大の効果を得るものが最良のデザインであるとする見方を提唱した。デザインを、単なる意匠と捉えるのではなく、最終的な制作物が利用者に与える効果まで見越した上で行う行為と捉える、より包括的な考え方だ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.97) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「全体を見渡したデザイン」

これも、どちらかというと当たり前だと思っていたので、割と新しめの考え方なのだと知って、少し驚きました。

サイモンは、バックミンスター・フラーとは別の文脈で、最適化過程としてのデザイン、システム設計としてのデザイン、という見方を明確にした。これは、フラーのところでも記したが、彼らのデザイン発想は、個別具体的な意匠の制作、というデザイン対象に接近した視点だけでなく、その制作物がどのような文脈でどのように利用されるのかを全体を俯瞰して考えることを優先する。

(中略)

技術も制度も経済も総合的に検討される、一種の総合科学のポジションを持っている。だから、政治科学を専攻し、集団の組織行動に関心をもつサイモンが、コンピュータという人工物の設計を研究対象にするうちに建築的な発想に近づいたのも全く自然なことだ。コンピュータの特質は汎用性=総合性にあったからだ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.125) 第4章 東海岸と西海岸「ハーバート・サイモン」

ひゃー。サイモンさん、めちゃくちゃおもしろい。ノーベル経済学賞を受賞しているのか。好奇心に対して素直なタイプの人を想像しました。おもしろい。この流れからドナルド・ノーマン誰のためのデザイン?に代表されるような認知工学的デザインに注目が集まるんだとか。おもしろい。

ソーシャル・ネットワークの動きを見ていく上で、常に気にかけておきたいことがある。それは「ソーシャル」という言葉が何を意味するのか、ということだ。

(中略)

しかし、ここからは、このソーシャルという言葉に拘っていきたい。というのも、ソーシャル・ネットワークという言葉も他の数多のウェブサービスの呼称と同じくアメリカで最初に使われた言葉であり、ソーシャルという表現も自ずからアメリカ社会における意味を帯びているはずだからだ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.142) 第5章 Facebookとソーシャル・ネットワーク「ソーシャルという言葉」

本書のタイトルにも触れる部分ですね。確かに、2011年の日本では「ソーシャル」って言葉の使い方には慎重になった方がよさそう、と感じます。何を指しているのか、分からなくなりがちなので。

実際、ザッカーバーグは、『アエネーイス』の一節の、「境界のない世界・国家」という表現を特に好むようで、何度か社内会議でも引用しているという。ひたすらに世界中の人々を「繋げる」ことに駆られているザッカーバーグが『アエネーイス』に惹かれているのは興味深い。

おそらくオープンやトランスペアレンシーをザッカーバーグが主張するのも、彼からすれば、その二つの価値はローマの多民族融和のようなものだからだろう。この原理によってローマ人が創設されたように、オープンやトランスペアレンシーという価値を内面化した人たちが、いわば「Facebookユーザー」という新たな民族を形作ることに期待しているように思われる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.151) 第5章 Facebookとソーシャル・ネットワーク「方向転換を支えた参照点」

参照点、おもしろい。加えて、マクルーハンのグローバル・ビレッジも参照しておくとよさそう、とのこと。

「連合主義」とは、「同志」からなる人々が状況に応じて可変的に組み合わさり、ことにあたることで、多様な人々が多様なまま結集できるとしている。連合主義も同志も直接的にはホイットマンの言葉だ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.175) 第6章 アメリカのプログラム「兄弟社会のアメリカ」

通常、コミュニティ(共同体)は地縁を前提に伝統的に形成された集団とされる。そして、その地縁から解放され、個人の自由な意思によってある特定の区域に作られた相互扶助的な集団がコミューンとされる。

しかし、基本的に移民の入植者によって作られたアメリカの街は、コミュニティといっても必然的にコミューンの性格を帯びる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.176) 第6章 アメリカのプログラム「集団を作り替える」

トクヴィルのいうアソシエーションとは、形はどうあれ、人々がある共通の目的を実現するために自発的に集まった組織のことをいう。そして、アメリカ人ほど、このアソシエーションという技術の活用に長けた人々はいないと評価する。トクヴィルは、アソシエーションの技術は「母なる知識」だとまで言う。アソシエーションの技術とは「手段を尽くして共通の目標の下に多数の人々の努力を集め、しかも誰をも自発的に目標の達成に向かわせる」ような「工夫」の総体として説明される。誰に指図されるでもなく自由に助けあう技術を誰もが習慣として身につける。そのことによって、誰もが原則的に平等であり、その限りで確定した権威が長期にわたり存続することはないデモクラシーの社会的不安定さを取り除くことができる。「母なる知識」というのはそういうことだ。

アメリカは「平等」を是とし、かつ、欧州に比べれば遥かに因習からの圧力のない状態から社会が始まった。そして、何より19世紀の、国土が拡大していくアメリカでは、自発的に自らの街を作っていくことが全米で試みられた。その過程でアソシエーションの技術は全米で実践され、活用されたことになる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.183) 第6章 アメリカのプログラム「アソシエーションの技術」

フランス人であるトクヴィルが見たアメリカという新大陸、の描写がとてもおもしろかったです。なにかというと、これは「日本人である大和田純が見たウェブという新大陸」という写像をまさに想起させるからです。長年に渡って積み上げられてきた因習のある日本と、まだまだ整備の途中であって、これから様々な国や街が創られ形を変えていくであろうウェブと、その対比があるわけですね。「みんな、パソコンは持っていないけれどモバイル端末は持っていて、無線LANのアクセスポイントは整備されていて、日本とはぜんぜん違うルールでのゲームになるからアジアはおもしろいよ」と話してくれる友人は、ネットワークインフラという観点から見たアジア諸国という新大陸の姿を視ているのかもしれませんね。

インターネットはおおよそ1965年頃に構想され95年頃に民間利用への舵を切った。この間約30年間だ。インターネットがいかに私たちの生活に不可欠なものになったかはもはやいうまでもないだろう。30年=ジェネレーションとはそれだけの変化の厚みを持つ。であれば、今この瞬間に思案され、考案されたものが30年後にはリアルなものになる。そう想定するところから始めてみる。そして、そうした「ジェネレーションからの発想」の実践者としてウェブ企業の創始者=ビジョナリたちが存在する。

(中略)

茫洋とした未来ではなく、一里塚となる未来を設定することが具体的な想像力をもたらすことに繋がっていく。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.233) 第7章 エンタプライズと全球世界「ジェネレーションで構想する」

本書の主題である「次を構想しよう」の振りとなる部分。30年、という単位はなるほど、と思いました。

ここから先は「第8章 Twitterとソーシャル・メディア」「第9章 機械と人間」と続いていくのですが、終盤にかけて、一気に駆け足になった印象を受けました。ひとつひとつの節には面白味を感じるものの、全体とのつながりはうまく読み取れなくて、ここにメモとして残しておきたいものは拾えませんでした。中には様々な問いかけもあったりして、ちょうど今、事業をつくる日々を過ごしている自分にとっては、触れることができてよかったな、という文章はたくさんありました。よく噛んで消化したいと思います。

「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」は、おもしろい本でした。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 (講談社現代新書)
ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 (講談社現代新書) 池田 純一

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