3D mode!

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このブログに3Dモードを追加した

みなさん、2012年のゴールデンウィークは、いかがお過ごしでしょうか!

中には映画を観に行ったりしている人もいるかと思うのですが、タイタンの逆襲なんかを例にとってみても、最近は「3D/2D 同時公開」の流れがあるみたいですね。

というわけで、このブログも、これから更新するときは 2D だけじゃなくて 3D でも楽しめるようにしてみました。ページの右の方にある「3D mode!」をクリックすると、3D モードでお楽しみいただけます。

元ネタは LAB! – 3D it! です。webkitTransform と MozTransform を使っているので、WebKit 系と Mozilla 系でしか動かないと思います。興味のある方は、Chrome や Firefox で試してみてください。

これはソーシャルメディア時代ののみのぴこ

これはのみのぴこという絵本があります。ぼくは、この絵本が好きです。

  • これは のみの ぴこ
  • これは のみの ぴこ の すんで いる ねこの ごえもん
  • これは のみの ぴこ の すんで いる ねこの ごえもん の しっぽ ふんずけた あきらくん

といった具合に、ページを追うごとに視点が変わっていって、登場人物が次々に登場しながらお話が展開していく、おもしろい絵本です。最近になってこれを久しぶりに読んでみると「なんだかインターネットっぽい!」と感じたので、ソーシャルメディア対応版(2012年)をつくってみました。

極小コミュニケーションと生活スタイルと人間ラヴのお話

どうも、じゅーんです!皆さん、マイクロコミュニケーション、楽しんでいますか!このエントリは「マイクロコミュニケーション」をテーマに書いてみます。2011年の後半は、ひとつひとつは小さいマイクロコミュニケーションが、だけれど無数に連なって大きなうねりとなっている、そんなふうに感じるシーンが何度かあったので、感覚を整理したいと思ったのです。

ここでいう「マイクロコミュニケーション」をどう位置付けるか

定義をなるべくパキッとさせておいた方が、以降のお話が楽しくなるはずなので、今回は思い切った定義を置いてしまいましょう。ここでは「マイクロコミュニケーション」を「文字入力を要せず2クリック(2タップ)以内の操作で完了するユーザ間のやりとり」と、してみます。具体的には、以下のようなものについて考えたくて、この定義を置いています。

  • はてなスター
  • Twitter の Favorite 及び ReTweet
  • Facebook の Like 及び Poke
  • Tumblr の Reblog 及び Like
  • Flickr の Favorite
  • Instagram の Like
  • Path の Facemarking 及び「足あと」 (どっちも、なんて呼んでいいかは、よく分かっていないので、勝手に)

ええと、呼称について、海外のサービスの場合は「そのサービスを英語表示にしているときのもの」を採用しています。ぼくの慣れているものに合わせて書いています。あとあと、「その定義なら、もっと別の言葉で呼んだ方がいいよ」という意見があれば、ぜひぜひ教えてください。

ライフスタイル

次いで、ライフスタイルのお話を、ちょっとさせてください。サンプルは自分「大和田純」です。

平日はだいたい、お仕事をしています。お仕事以外で誰かと会って交流する機会は、そんなに多くありません。だけれど、人と交流すること自体はとても好きで、いくつかの、いわゆる「ソーシャル系」のサービスを並行して愛用しています。マイクロコミュニケーション機能を、積極的に活用します。

時間の使い方が下手で、あんまり、まとまった時間を作って、人との交流に充てることができずにいるので、ちょっとした空き時間なんかにお手軽に交流を楽しめるマイクロなソーシャル系サービスに、救いを求めています。Twitter の Timeline や、Facebook の News Feed もそうですし、Tumblr の Dashboard も、時間のあるときに、好きなところから参加し、好きなところで離脱できるので、気楽で助かります。

自分みたいなライフスタイルとマイクロコミュニケーション

細切れの隙間時間で楽しめるマイクロコミュニケーション、楽なので、ついつい頼ってしまいます。「あの人とあの人と」「この日のこの時間に」「この場所で」「こんなことをして遊ぼう」なんて予定を立てることも、もちろんありますが、ちょくちょくというわけにはいかなくて。

では、ここで思考実験です。

  • [A] 1ヶ月に1日、予定を合わせて、その日は「朝から晩まで一緒にいて楽しい時間を過ごす!」と決めて過ごす相手
  • [B] 毎日、なんかしらの Tweet を定常的にお互いに1個以上は Favorite する相手

[A]と[B]の2種類の相手がいたと仮定して、1年後に、より親密になっているのは、どちらでしょうか。[A]の相手とは、12日分の楽しい思い出があることでしょう。[B]の相手とは、お互いに365個以上の Favorite した Tweet があることになります。

ぼくが2011年に思ったのは「ある相手のことを、毎日少しずつでも意識させられると、関係に無視できないレベルの影響があるなあ」ということでした。皆さんも、試しに想像してみてくださいな!

ヒューマンラヴ

マイクロコミュニケーションが、人と人の関係性に与える影響を考えてみるとなかなかおもしろくて、去年の12月当たりから、ちょっとずつ考察しています。というか、これまでにも「コミュニケーションがマイクロ化する流れ」はずっと感じていて、このブログでも、何度かその手のお話は書いています。関連しそうなものを、いくつか並べておきます。

それから、はるな様のあるいは画面越しの優しさについて – インターネットすやすやも、ぼくにとってはリアリティたっぷりで、今回のお話にも関係すると思うので、参照しておきます。

「そう、いろんなメディアが一気にかぶってくる感じ。電話はなんだか、許されなくない?なに今あなたわたしと電話しながらFacebook見てたの!?キーッ!って、相手によってはなりかねないじゃん」

あるいは画面越しの優しさについて – インターネットすやすや

Web を通じた… いや、もう2012年ですから、スマートフォンアプリのことを鑑みて、もっと広い言葉で表現するべきですね。情報技術を通じた、時空を超えるコミュニケーションの帯域はどんどん増し、流通するコミュニケーションはどんどんリッチになっています。ブログが世に出たばかりの頃は、学級の中で「もっとも声の大きい人たち」の居場所しかなかったサイバースペースにも、今では「声の大きい人たちの主張を聞いて上手にうなずいている人」の居場所も、じゅうぶんにあります。「うなずく」という行為によっても、居場所をつくることができるまでになりました。

そうして、それらの経路は、情報を流通させるだけでなく、人と人の関係性に大きな影響を与えるまでに、なってきたと感じます。たとえば、ぼくがほとんどアクセスしていないソーシャル系サービスをメインに楽しんでいる人たちとは、趣味が合うかどうか、なんてパラメータとは無関係に、疎遠になりがちです。このことから「どのソーシャル系サービスを使うか」という意思決定が「どの地に住むか」といったレベルの決定に近付いていると言えるでしょう。「趣味は合うけれど、遠くに住むようになって、疎遠になった」とまったく同じ形の現象だと思います。

現代の日本において「交通機関を利用する気は、まったくない」と頑なに決めている人とは、交流がむつかしいと思うのです。一緒に旅行に行ったり、お出かけしたり、できない。「交通インフラを利用する」という時代を受け入れる人とそうでない人との間に、境界ができてしまいます。この「交通インフラ」を「情報インフラ」に置き換えたときに何が言えるかは、想像に難くないでしょう。これは、手段がせいぜい「電話」か「メール」かくらいしかなかった頃とは、まったく状況が変わってきているのですよ。

人は、一度でも「楽」を知ってしまったら、大きくそっちに流れていく。そして戻ってくることはない。このまま「マイクロコミュニケーション」が加速する方向に人々が流れていったときに、人と人の関係はどのようにつくられていくのだろうなあ。そのときに、ぼくは、誰と、どんな人と、一緒にいることを、選ぶのだろうか。

…なんてことを、とりとめもなく、思いつく度に考えてきたのですが、「Path 2.0」の登場によって、ぼくから見える景色も大きく変わりはじめていて、色々と無視できない気持ちになって、このエントリを書くに至りました。

まとめ

女子力系ライターの方におかれましては、以上の内容をリバースエンジニアリングして「ソーシャル系草食男子の意識に潜り込む7の方法」ぐらいの記事を書いたらいいと思います!

すみません、ぜんぜんまとまっていません…!が、どこかのタイミングでは、このことについて真剣に考えなければならないタイミングがくるはず、と思って、現状の感覚を dump させてもらいました。このトピックに興味がある人は、ぜひぜひ話しかけてくださいね。お話しましょう。まずはマイクロなところから話しかけてもらえると助かります!なーんて!

〜未完〜

「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」を読んだ

最初から最後まで、不思議な刺激を受けながら読みました。読書メモです。まずは、プロローグの一部を引用します。

構想力が大事になるというのは、このような文脈においてだ。遠からずかつての夢の完成形を目撃してしまう以上、50年前の夢=ビジョンに代わる新たな夢=ビジョンを、私たちはこれから構想していかなければならない。ジョブズやシュミットからバトンを受け取らねばならない時に備えなくてはならない。それはそう遠くない将来に生じることだ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.9) プロローグ「構想力、想像力」

この本が世に出たのは、2011年3月のことでしたが、ぼくがこの本を読み進めている途中に、その「バトンを受け取らねばならない時」をリアルに感じる瞬間が訪れました。2011年10月5日、スティーブ・ジョブズが亡くなったからです。

点と点がつながっていく感じ

本書を読んで、自分の中に「点」として存在していたいくつかのものが、意味のあるつながりをもって感じられるようになりました。この感覚は「パターン、Wiki、XP」を読んだときに感じたものと似ていました。「それと、それと、それが、つながるのか」という感覚です。どちらも書名が「3つの名詞の羅列」であることも共通していますね。おもしろい。

パーソナルコンピュータ、カウンターカルチャー、宇宙船地球号、Whole Earth Catalog、全体性、グローバル・ビレッジ、インターネット、複雑系科学、ネットワーク科学、アソシエーション、コミュニティ、コミューン、Google、Apple、ソーシャルウェブ、デザイン思考、フリーミアム、Twitter、Facebook、人間讃歌。これらのキーワードで、あったり。

スティーブ・ジョブズ、エリック・シュミット、クリス・アンダーソン、ティム・オライリー、ローレンス・レッシグ、アラン・ケイ、スチュアート・ブランド、ケヴィン・ケリー、アルバート=ラズロ・バラバシ、リチャード・ワーマン、ドナルド・ノーマン、マルコム・グラッドウェル、クレイトン・クリステンセン、マイケル・ポーター、ティム・バーナーズ・リー、ビズ・ストーン、ラリー・ペイジ、セルゲイ・ブリン、マーク・ザッカーバーグ。といった人物たちで、あったり。

ひとつひとつ、ひとりひとりは、なんとなく「知っている」くらいのものだったりするけれど、本書の中では、これらの間にある「関係」や「つながり」までを含めて立体的に描かれていて、とてもワクワクしながら読みました。

ところで、余談ではありますが、著者の池田純一さんは「あとがきに代えて」と冠した「ウェブ時代に本を書くということ」の中で「本にしちゃうと立体的に書けない」といった旨のことを言っているのですが、それでも読者であるぼくが立体感を感じ取ることができたのだから、ストーリーってのはおもしろいと思います。

ウェブの情報構造はハイパーリンクが前提であるため、その構造は立体的だ。(中略) ウェブ時代に本を書くということは、この3次元以上の繋がりからなる情報構造をいかにして平面に射影するか、最も効率的な射影方法はなにか、その切り口を作ることなのだろう。そして、この本の場合の切り口は「アメリカ」であった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.309) ウェブ時代に本を書くということ

読書メモ

ユーザーからのフィードバックが常識となった現代から見れば当たり前のことだが、サイクル=循環に基づいたビジネスの見方はそれほど古い歴史をもつものでもない。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.36) 第1章 ウェブの現在「複雑系科学」

自分の感覚とはギャップがありました。古くからあるものだと思っていました。

ネットワーク科学の第一人者であるアルバート=ラズロ・バラバシは、パタンではなく「ライム(音韻)」という表現を好む。パタンは視覚的なものを連想させるが、人々の行動類型は不可視であるがゆえに、たしかにライムと呼ぶほうが適切かもしれない。ライムという表現は、また、重ねあわせによって異なるライムを生み出すことも想像させる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.39) 第1章ウェブの現在「ネットワーク科学」

おお、バラバシ先生の考え方、おもしろい!パタンじゃなくてライム。ライム・ランゲージ!セッションできそう!

その協働のあり方に次代の生産様式をベンクラーは見出す。継続する協働である以上、人々の参加動機は、全くの利己的動機でもなければ、全くの利他的動機でもない。互いに得するwin-winの関係を期待するところにある。そして、その期待が実現することを参加者が実際に経験することで、協働関係は社会的事実として強固なものになっていく。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.46) 第1章 ウェブの現在「アーキテクチャ法学者たち」

「Wikipedia」や「Linux」の発展を身近なものとして感じている自分にとっては、すんなりと受け入れられる記述でした。すでに強固なものになってきた、と過去形で感じているくらいです。ところで格差と若者の非活動性について (内田樹の研究室)というエントリは、

今の日本社会に致命的に欠けているのは、「他者への気づかい」が「隣人への愛」が人間のパフォーマンスを最大化するという人類と同じだけ古い知見です。

格差と若者の非活動性について (内田樹の研究室)

と、締め括られていましたが、こういった感覚が「次代の生産様式」なのか「古い知見」なのか、どっちなんだろうって興味を持ちました。考え自体は古いけれど、行動に落ちるまでになってきたのが近年、という整理になるのかな。

一方、ブランドは、そうした意匠ではなく、意匠を含む文化現象を生み出した装置、いわばカウンターカルチャーの「精神」の方により強く関心を寄せた。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.72) 第2章 スチュアート・ブランドとコンピュータ文化「歴史的場面の目撃者」

LSDやテレビのように、何であれ、精神的拡張や一体感をもたらすようなツールにブランドは強い関心を示すようになった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.94) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「宇宙から見た地球」

66年には、「宇宙から見た地球の写真」の公開をNASAに求める運動を起こした。これは、ブランド自身がLSDのトリップ経験から地球の丸さを鋭敏に感じてしまったことが発端だった。この運動は「宇宙船地球号」を提唱した、デザイン科学者であるバックミンスター・フラーの発想に触発されたもので、地球が球として一つであることを知れば、人々は惑星レベルで物事を捉えるようになると思ってのことだった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.94) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「宇宙から見た地球」

うまく言えないのだけれど、ここ、すごく引っかかりました。ブランドが「意識の拡大」にずっと興味を持っていた、というのが気になります。おもしろい。自分の場合を考えてみると、2004年くらい、研究室に配属された直後に、この世界の「べき乗則」を知ったり、mixiをクローリングすれば社会の形を把握できるのでは、と考えたりできるようになって、確かに、自分にとってまったく新しい視座を手に入れて、軽く狂ったように興奮気味であったことを思い出します。その感覚に近いのかもしれません。

当時の若者の典型的な不安は、大量生産/大量消費を支える大企業という官僚制の中で一つの部品として生きることに対する不安であり、冷戦の進行の中で徐々に現実味を帯びてきた核戦争による人類の破滅への不安であった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.87) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「ヒッピーカルチャー」

自分は2011年の日本に身を置きながら核のこととか心配していないし、そもそも考えないようにしているけれども、前半の半分には強く共感します。ヒッピーの人たち、そうだったのですね。

フラーは、comprehensive designという考え方を提出し、デザイン=設計の際には、全体を見渡した上で、最小資源で最大の効果を得るものが最良のデザインであるとする見方を提唱した。デザインを、単なる意匠と捉えるのではなく、最終的な制作物が利用者に与える効果まで見越した上で行う行為と捉える、より包括的な考え方だ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.97) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「全体を見渡したデザイン」

これも、どちらかというと当たり前だと思っていたので、割と新しめの考え方なのだと知って、少し驚きました。

サイモンは、バックミンスター・フラーとは別の文脈で、最適化過程としてのデザイン、システム設計としてのデザイン、という見方を明確にした。これは、フラーのところでも記したが、彼らのデザイン発想は、個別具体的な意匠の制作、というデザイン対象に接近した視点だけでなく、その制作物がどのような文脈でどのように利用されるのかを全体を俯瞰して考えることを優先する。

(中略)

技術も制度も経済も総合的に検討される、一種の総合科学のポジションを持っている。だから、政治科学を専攻し、集団の組織行動に関心をもつサイモンが、コンピュータという人工物の設計を研究対象にするうちに建築的な発想に近づいたのも全く自然なことだ。コンピュータの特質は汎用性=総合性にあったからだ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.125) 第4章 東海岸と西海岸「ハーバート・サイモン」

ひゃー。サイモンさん、めちゃくちゃおもしろい。ノーベル経済学賞を受賞しているのか。好奇心に対して素直なタイプの人を想像しました。おもしろい。この流れからドナルド・ノーマン誰のためのデザイン?に代表されるような認知工学的デザインに注目が集まるんだとか。おもしろい。

ソーシャル・ネットワークの動きを見ていく上で、常に気にかけておきたいことがある。それは「ソーシャル」という言葉が何を意味するのか、ということだ。

(中略)

しかし、ここからは、このソーシャルという言葉に拘っていきたい。というのも、ソーシャル・ネットワークという言葉も他の数多のウェブサービスの呼称と同じくアメリカで最初に使われた言葉であり、ソーシャルという表現も自ずからアメリカ社会における意味を帯びているはずだからだ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.142) 第5章 Facebookとソーシャル・ネットワーク「ソーシャルという言葉」

本書のタイトルにも触れる部分ですね。確かに、2011年の日本では「ソーシャル」って言葉の使い方には慎重になった方がよさそう、と感じます。何を指しているのか、分からなくなりがちなので。

実際、ザッカーバーグは、『アエネーイス』の一節の、「境界のない世界・国家」という表現を特に好むようで、何度か社内会議でも引用しているという。ひたすらに世界中の人々を「繋げる」ことに駆られているザッカーバーグが『アエネーイス』に惹かれているのは興味深い。

おそらくオープンやトランスペアレンシーをザッカーバーグが主張するのも、彼からすれば、その二つの価値はローマの多民族融和のようなものだからだろう。この原理によってローマ人が創設されたように、オープンやトランスペアレンシーという価値を内面化した人たちが、いわば「Facebookユーザー」という新たな民族を形作ることに期待しているように思われる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.151) 第5章 Facebookとソーシャル・ネットワーク「方向転換を支えた参照点」

参照点、おもしろい。加えて、マクルーハンのグローバル・ビレッジも参照しておくとよさそう、とのこと。

「連合主義」とは、「同志」からなる人々が状況に応じて可変的に組み合わさり、ことにあたることで、多様な人々が多様なまま結集できるとしている。連合主義も同志も直接的にはホイットマンの言葉だ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.175) 第6章 アメリカのプログラム「兄弟社会のアメリカ」

通常、コミュニティ(共同体)は地縁を前提に伝統的に形成された集団とされる。そして、その地縁から解放され、個人の自由な意思によってある特定の区域に作られた相互扶助的な集団がコミューンとされる。

しかし、基本的に移民の入植者によって作られたアメリカの街は、コミュニティといっても必然的にコミューンの性格を帯びる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.176) 第6章 アメリカのプログラム「集団を作り替える」

トクヴィルのいうアソシエーションとは、形はどうあれ、人々がある共通の目的を実現するために自発的に集まった組織のことをいう。そして、アメリカ人ほど、このアソシエーションという技術の活用に長けた人々はいないと評価する。トクヴィルは、アソシエーションの技術は「母なる知識」だとまで言う。アソシエーションの技術とは「手段を尽くして共通の目標の下に多数の人々の努力を集め、しかも誰をも自発的に目標の達成に向かわせる」ような「工夫」の総体として説明される。誰に指図されるでもなく自由に助けあう技術を誰もが習慣として身につける。そのことによって、誰もが原則的に平等であり、その限りで確定した権威が長期にわたり存続することはないデモクラシーの社会的不安定さを取り除くことができる。「母なる知識」というのはそういうことだ。

アメリカは「平等」を是とし、かつ、欧州に比べれば遥かに因習からの圧力のない状態から社会が始まった。そして、何より19世紀の、国土が拡大していくアメリカでは、自発的に自らの街を作っていくことが全米で試みられた。その過程でアソシエーションの技術は全米で実践され、活用されたことになる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.183) 第6章 アメリカのプログラム「アソシエーションの技術」

フランス人であるトクヴィルが見たアメリカという新大陸、の描写がとてもおもしろかったです。なにかというと、これは「日本人である大和田純が見たウェブという新大陸」という写像をまさに想起させるからです。長年に渡って積み上げられてきた因習のある日本と、まだまだ整備の途中であって、これから様々な国や街が創られ形を変えていくであろうウェブと、その対比があるわけですね。「みんな、パソコンは持っていないけれどモバイル端末は持っていて、無線LANのアクセスポイントは整備されていて、日本とはぜんぜん違うルールでのゲームになるからアジアはおもしろいよ」と話してくれる友人は、ネットワークインフラという観点から見たアジア諸国という新大陸の姿を視ているのかもしれませんね。

インターネットはおおよそ1965年頃に構想され95年頃に民間利用への舵を切った。この間約30年間だ。インターネットがいかに私たちの生活に不可欠なものになったかはもはやいうまでもないだろう。30年=ジェネレーションとはそれだけの変化の厚みを持つ。であれば、今この瞬間に思案され、考案されたものが30年後にはリアルなものになる。そう想定するところから始めてみる。そして、そうした「ジェネレーションからの発想」の実践者としてウェブ企業の創始者=ビジョナリたちが存在する。

(中略)

茫洋とした未来ではなく、一里塚となる未来を設定することが具体的な想像力をもたらすことに繋がっていく。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.233) 第7章 エンタプライズと全球世界「ジェネレーションで構想する」

本書の主題である「次を構想しよう」の振りとなる部分。30年、という単位はなるほど、と思いました。

ここから先は「第8章 Twitterとソーシャル・メディア」「第9章 機械と人間」と続いていくのですが、終盤にかけて、一気に駆け足になった印象を受けました。ひとつひとつの節には面白味を感じるものの、全体とのつながりはうまく読み取れなくて、ここにメモとして残しておきたいものは拾えませんでした。中には様々な問いかけもあったりして、ちょうど今、事業をつくる日々を過ごしている自分にとっては、触れることができてよかったな、という文章はたくさんありました。よく噛んで消化したいと思います。

「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」は、おもしろい本でした。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 (講談社現代新書)
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WebデザイナやWebクリエイタなんて言葉が指すもの

先日、未経験からWebデザイナー、Webクリエイターを目指す人のためのWordPressとTwitterをつかった就転職活動のすすめというエントリを読みまして、以下のようなコメントを添えて、はてなブックマークに保存しました。

うまく言語化できないのだけれど、この人が見ている業界とぼくが見ている業界には、けっこうなズレがあるように感じる。ニュートラルな位置でこのエントリを読んだ人は、他の人のお話も聞いてみるといいかも。

はてなブックマーク – june29の食べたパン – 2011年9月4日

とにかく「んんー」という気持ちを抱えていたのですね。それで、ブックマークしたあとも、なんだろうなって少し考えていて、そもそも「Webクリエイタ」って、どんな人のことを指して言っているか、差異がありそうだなぁと感じました。

それから丸1日くらい経ったときに、先のエントリの中の人から、次のようなメンションをいただきまして、お返事を書くことにしました。それが、このエントリです。

はじめまして。はてブのコメントをみました。感じた業界のズレ、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか?興味があります。

Twitter / @designmap_info

立ち位置の違い

自分は、先のエントリで言われていた「Webデザイナ」とか「Webクリエイタ」ってよりは、「Web系プログラマ」に近い立ち位置だと思います。自分のまわりにいる人たちも、プログラマが多いです。

試しに見てみると、ぼくのはてなブックマークには、お気に入りユーザに登録している人が (現時点で) 187人います。だいたい、この人たちがブックマークしているような情報をぱくぱくとつまみ食いしながら、日々を生きていることになります。ところで、件のエントリは (現時点で) 700人以上にブックマークされているにも関わらず、ぼくのお気に入りユーザの中には、これをブックマークしている人はひとりもいません。

つまり、おおよそ「プログラマ」的な立ち位置の人は、件のエントリと関わっておらず、そうではない「Webナンチャラ」の人たちか、または、そうなりたい人たちが、件のエントリをブックマークしているということでしょうか。

語彙の違い

「Webデザイナ」は、ひとまず置いておくことにして。ここでは「Webクリエイタ」に絞って、考えてみます。はてはて。「Webクリエイタ」って、どんな人のことでしょうか。

自分は、肩書きを気にしなきゃいけない瞬間ってのは、あんまりないのですが、状況によっては「Webクリエイタ」と名乗るときもあります。これまでに関わってきたプロダクトは小さいものばかりとはいえ、Webアプリケーションをつくって動かせるスキルを持っていて、アイディア出しやプロダクト設計にも手を出しますし、実際に「Web上で動作するプロダクトをクリエイションしてきたから」というのが、自分が「Webクリエイタ」を名乗る理由です。

自分の身近にいて、自分が勝手に「この人はWebクリエイタって感じがするなー」と思っている人と言えば、@yusukebeさんや@ruedapさんを思い浮かべます。今までに見たことがないようなものをクリエイションし、届けてくれるからです。

さて、件のエントリに戻ってみましょう。よくよく読んでみると「Webデザイナは〜」という記述はたくさんあって、一方で「Webクリエイタは〜」という文章はほとんど見つからないのであった… だとすると、ああ、これは自分のよく知らない「Webデザイナ」についてのエントリなんだな、と思えば、最初に感じた違和感とはおさらばできそうです。

Webデザイナって?

それでも、まだ、考えてみたいのは「Webデザイナ」って、どんな職業のことを指しているのだろう、ってことです。少なくとも「絵描き」としてのデザイナさんと「設計者」としてのデザイナさんと、2種類は、いそうな気がしています。

それこそ件のエントリで言われている「Webデザイナ」という存在も、いると思いますし、他には、LL Planets での mala さんの貴重講演の中で描かれる「UIエンジニア」ってのも、自分の感覚では「これぞデザイナだ」と感じられるものでした。

でも、それぞれに語られている「こういうことを身につけよう」「こうやって学んでいこう」というお話は、なんていうか、ぜんぜん違うものなんですね。だから、もし、件のエントリを盲目的に読んで「なるほど、こうやっておけば間違いないんダナー」と信じすぎてしまうのは、望ましくないと思いました。決して「間違ったことが書いてあるから信じるな」と主張したいのではなくて、他にも、色んなお仕事があるし、色んな現場があるし、色んな肩書きがあるはずだから、多面的に多様な考えに触れて、その中から、自分に合うと感じるものを選んでいったらよいのではないか、と考えました。

なんだか、むつかしいのですよね。自分が「プロジェクトを手伝ってくれるデザイナさんを探しています」と言わなきゃいけないときに、探している人が、アンビエント・ファインダビリティ検索と発見のためのデザインを読んでいるような「情報デザイン」のスキルを持っている人なのか、そうではなくて Adobe の Illustrator や Photoshop を自分の手足のように操作できるような人なのか、とにかくイラストを描かせたら上手な絵描きさんなのか、上手に区別できている気がしません。

そういったモヤモヤを、ブックマークコメントという、文字数の制約が厳しいところにぶつけようとしてしまって、ふにゃふにゃしたコメントになってしまいました。

まとめ

一応、まとめます。

未経験からWebデザイナー、Webクリエイターを目指す人のためのWordPressとTwitterをつかった就転職活動のすすめというエントリを読みました。「Webクリエイタ」ってなんだろうな、誰みたいな人のことだろうな、って思いました。「Webデザイナ」ってなんだろうな、誰みたいな人のことだろうな、って思いました。

自分が見ているのは「Webアプリケーション開発」で、件のエントリで扱っていたのは「Webサイト制作」である、とふたつに整理すれば、色んなことに納得がいくな、と思いました。