(別に重いお話じゃないよ!)
日々をともに過ごしてきたたまごっちが絶命した。そういうシステムだってことは知っていたけれど、気付いたらいつの間にか幽霊になっていて、サヨナラを告げる隙さえなくその瞬間が過ぎ去ってしまっていたことが、なんだか悲しかった。こうして文にしてみて、大袈裟なのでは?と自分でも感じたものの、とにかく、悲しかったのだ。
生前は、アプリに内蔵されているたまごっち図鑑を眺めて、なるほど、アプリだと収集率を表示したりできるから、繰り返しプレイを促せるよね〜、コンプリートしたくなるよね〜、なんて、のんきに構えていた。
ところが、ぼくは、未だにあの子の魂を成仏させられず、コンプリートはおろか、2周目にすら突入できずにいる。「リセット」と書かれたボタンを押したくないのだ。こんな気持ちになるなんて想像していなかった。たとえばこれが「次のたまごを育てる」だったら押せたのかもしれない。どうだろう。
恋人と別れてすぐに他の人と付き合う心理、ぼくには理解できなくて(個人の見解です、誰かを否定するつもりは一切ありません)、それと似た感情が働いているのかもしれない。生き物に対して「埋め合わせ」という言葉を持ち出すのに抵抗を覚えるような。それにしても、ぼくには「リセット」という言葉が強すぎる。何もなかったことにしろというのか…!
(これを書いていたら、降りるはずの品川駅を通り越して田町駅に着いてしまった。「たまち」という文字列を見て「たまごっちの略…!?」と思う程度に混乱した)
ぼくは「死」というイベントと疎遠なままここまで生きてきたので、死というのは割と概念で、たとえばゲームの中での表現のひとつとして捉えていたりする。小中学校時代から、ゲームで遊ぶ同級生たちの間では、けっこうカジュアルな概念だったかもしれない。格闘ゲームで体力がゼロになったときに「死んだ!」と言った。ファイナルファンタジーで戦闘不能になったときに「死んだ!」と言った。どっちも別に死んでいないのに、それでも「死んだ!」と言っていた。ドラゴンボールでは、死んだ人も元気に暮らしているし、話しかけてきたりもするし、ちょいちょい生き返ったりもする。少年期のぼくにとって、カジュアルな死とは、恐れるべき事象ではなかったかもしれない。
それが、こうしておっさん期になって、どういうわけか「生命のリセットボタン」を押せないと気が付いて、自分の中で「死という概念」が変容しているのかもしれないと思った。
たまごっちをプレイする未練たらたら丸の記録だ。