#june29jp

書籍「サピエンス全史」の下巻を読んだ

2018-12-05

上巻を読み終えて、下巻はどうしようかな〜と思いながらそのまま半年くらいを過ごし、そのあと「読書が捗らない期」に突入して、それが明けて「またなにか読みたくなってきた!」と思ったときに手に取ったのが下巻でした。手に取ったというのは比喩で、実際は電子書籍ですけどね。

書籍「サピエンス全史」の上巻を読んだ から、ちょうど 1 年くらいが経ちました。

上巻では「認知革命」「農業革命」「貨幣の登場」「帝国の登場」のお話がありました。下巻には「宗教」「科学革命」「資本主義」「超ホモ・サピエンス」などが出てきます!中世から現代、そして未来に向けてお話が進んでいきます。

以下、読書メモです。

宗教について

「宗教」といったときにぼくらが想像するような、いわゆる特定の神サマ的なやつに祈る「ザ・宗教」とは無縁の生活を続けてきたので、宗教というものがなぜ世の中で必要とされるのか、自分にはよくわかっていませんでした。言葉で説明されたら「なるほど」くらいの感覚は得られるのですが、自分の感覚で心からは理解できていないな〜という感触がずっとありました。

サピエンス全史を読み終わって認識は少し更新されて、今のところは「宗教の存在に必然性は別にない」に落ち着きました。無数に存在していた人類の可能性のうち、宗教によって人類が存続した世界線にぼくが生まれたのだ、くらいに捉えました。

たとえば、100 年後の人類が「お金」をやりとりせずに生きているとしたら、その時代に生まれた人々は歴史の教科書に登場する「お金」というものの意味はよくわからないはずです。「お金のトラブルで人間たちが殺し合った」という事件のことを聞かされても「なんで、そんなよくわからないもののために…」となるでしょう。ぼくにとっての宗教はそんな感じ。

ただ、それが存在したことで世界は大きく動いたのだ、という過去があるというだけのこと。

もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。

うむうむ、今のぼくには納得できるロジックです。

私たちは信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくという、神不在のイデオロギーに区分することができる。

ぼくは「神サマではない、別のナニカ」を信じて生きていると思います。

仏教徒がヒンドゥー教の神々を崇拝できたり、一神教信者が悪魔の存在を信じられたりしたのと同じように、今日の典型的なアメリカ人は国民主義者である(歴史の中で果たすべき特別な役割を持ったアメリカ国民の存在を信じている)と同時に、自由市場主義の資本主義者でもあり(自由競争と私利の追求こそが、繁栄する社会を築く最善の方法であると信じている)、さらに自由主義の人間至上主義者でもある(人間は奪うことのできない特定の権利を造物主から授けられたと信じている)。

ハイブリッド信念や〜!

文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で、人間は図らずもその宿主になっていると見る学者がしだいに増えている。ウイルスのような有機的寄生体は、宿主の体内で生きる。それらは増殖し、一人の宿主から別の宿主へと拡がり、宿主に頼って生き、宿主を弱らせ、ときには殺しさえする。宿主が寄生体を新たな宿主に受け継がせられるだけ長く生きさえすれば、宿主がどうなろうと寄生体の知ったことではない。それとそっくりな形で、文化的な概念も人間の心の中に生きている。そうした概念は増殖して一人の宿主から別の宿主へと拡がり、ときおり宿主を弱らせ、殺すことさえある。雲の上のキリスト教徒の天国という信念や、この地上における共産主義の楽園という信念をはじめ、文化的な概念は、人間を強制して、その概念を広めるのに人生を捧げさせることができる──たとえ命を代償に差し出さなければならない場合にさえ。人間は死ぬが、概念は広まる。このように考えれば、文化は他者につけ込むために一部の人が企てた陰謀(マルクス主義者たちはそのように文化を捉える傾向がある)ではなくなる。むしろ、文化は精神的な寄生体で、偶然現れ、それから感染した人全員を利用する。

それを「文化」と呼ぶ、と。

この考え方は、ミーム学と呼ばれることがある。それは、生物の進化が「遺伝子」と呼ばれる有機的情報単位の複製に基づいているのとちょうど同じように、文化の進化も「ミーム」と呼ばれる文化的情報単位の複製に基づいているという前提に立つ。成功するのは、宿主である人間にとっての代償と便益に関係なく、自らのミームを繁殖させるのに非常に長けた文化だ。

ミームだ。

ゲーム理論だろうが、ポストモダニズムだろうが、ミーム学だろうが、何と呼ぼうと、歴史のダイナミクスは人類の境遇を向上させることに向けられてはいない。歴史の中で輝かしい成功を収めた文化がどれもホモ・サピエンスにとって最善のものだったと考える根拠はない。進化と同じで、歴史は個々の生き物の幸福には無頓着だ。

なるほどねぇ。これは生物の自然淘汰と同じだ。優れているから遺る、というわけではない。たまたま遺ったものがぼくらの歴史になった、というだけか。

科学革命について

過去五〇〇年間に、人間の力は前例のない驚くべき発展を見せた。一五〇〇年には、全世界にホモ・サピエンスはおよそ五億人いた。今日、その数は七〇億に達する。一五〇〇年に人類によって生み出された財とサービスの総価値は、今日のお金に換算して、二五〇〇億ドルと推定される。今日、人類が一年間に生み出す価値は、六〇兆ドルに近い。一五〇〇年には人類は一日当たりおよそ一三兆カロリーのエネルギーを消費していた。今日、私たちは一日当たり一五〇〇兆カロリーを消費している(これらの数字を見直してほしい。私たちの人口は一四倍、生産量は二四〇倍、エネルギー消費量は一一五倍に増えたのだ)。

直近約 500 年間って、すごいんだなあ。書籍は縦書きだからこういう数字の表記になっているけれど、横書きにするとめちゃ読みづらいッスね。

科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。

これはやばい。革命だ。「無知の知」を得たのはわりと最近、ということに驚きました。それまでは「◯◯に聞けばわかる」と特定の地位や役職の人を尊敬するか、あるいは「全知全能の神がすべてを知っている」という認識だったんですねぇ。

とはいえ、近代の文化は以前のどの文化よりも、無知を進んで受け容れる程度がはるかに大きい。近代の社会秩序がまとまりを保てるのは、一つには、テクノロジーと科学研究の方法とに対する、ほとんど宗教的なまでの信奉が普及しているからだ。この信奉は、絶対的な真理に対する信奉に、ある程度まで取って代わってしまった。

ぼくなんかは、全身がこの信奉に染まっていると言って差し支えないでしょうね。

とくに注意を向けるべき力が二つある。帝国主義と資本主義だ。科学と帝国と資本の間のフィードバック・ループは、過去五〇〇年にわたって歴史を動かす最大のエンジンだったと言ってよかろう。今後の章では、その働きを分析していく。まず、科学と帝国という二つのタービンがどのようにしてしっかり結びついたかに注目し、続いて、両者が資本主義の資金ポンプにどのようにつながれたかを見てみることにする。

このあたりの物語の紡ぎ方はおもしろかったです。

コロンブスは、無知を自覚していなかったという点で、まだ中世の人間だったのだ。彼は、世界全体を知っているという確信を持っていた。そして、この重大な発見さえ、その確信を揺るがすことはできなかった。

コロンブスは前時代の人、という主張はおもしろい。アメリカ大陸を「インドだ!」と思って原住民をインディアンと呼んでしまったんだねぇ。かわいい。しゃかりき。

世界の陸地面積の四分の一強を占める、七大陸のうちの二つが、ほとんど無名のイタリア人にちなんで名づけられたというのは、粋な巡り合わせではないか。彼は「私たちにはわからない」と言う勇気があったというだけで、その栄誉を手にしたのだから。

匿名イタリア人はコロンブスとちがって現代的だ〜!

アメリカ大陸の発見は科学革命の基礎となる出来事だった。そのおかげでヨーロッパ人は、過去の伝統よりも現在の観察結果を重視することを学んだだけでなく、アメリカを征服したいという欲望によって猛烈な速さで新しい知識を求めざるをえなくなったからだ。彼らがその広大な新大陸を支配したいと心から思うなら、その地理、気候、植物相、動物相、言語、文化、歴史について、新しいデータを大量に集めなければならなかった。聖書や古い地理学の書物、古代からの言い伝えはほとんど役に立たなかったからだ。

未知の大陸において聖書や言い伝えがほとんど役に立たないと気付くの、現代を生きるぼくからすると痛快なストーリーと思っちゃうな。

これ以降、ヨーロッパでは地理学者だけでなく、他のほぼすべての分野の学者が、後から埋めるべき余白を残した地図を描き始めた。自らの理論は完全ではなく、自分たちの知らない重要なことがあると認め始めたのだ。

いい話だな〜。そしてお話はここから「資本主義」へと続いていく。

資本主義について

人類は何千年もの間、この袋小路にはまっていた。その結果、経済は停滞したままだった。そして近代に入ってようやく、この罠から逃れる方法が見つかった。将来への信頼に基づく、新たな制度が登場したのだ。この制度では、人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に換えることに同意し、それを「信用」と呼ぶようになった。この信用に基づく経済活動によって、私たちは将来のお金で現在を築くことができるようになった。信用という考え方は、私たちの将来の資力が現在の資力とは比べ物にならないほど豊かになるという想定の上に成り立っている。将来の収入を使って、現時点でものを生み出せれば、新たな素晴らしい機会が無数に開かれる。

ふだん何気なく使っている「信用 (クレジット) カード」の源流を見た気持ちになりました。この発見、だいぶ最近の出来事なんだなあ。クレジットの起源について、真面目に考えたこともありませんでした。

近代以前の問題は、誰も信用を考えつかなかったとか、その使い方がわからなかったとかいうことではない。あまり信用供与を行なおうとしなかった点にある。なぜなら彼らには、将来が現在よりも良くなるとはとうてい信じられなかったからだ。概して昔の人々は自分たちの時代よりも過去のほうが良かったと思い、将来は今よりも悪くなるか、せいぜい今と同程度だろうと考えていた。経済用語に置き換えるなら、富の総量は減少するとは言わないまでも、限られていると信じていたのだ。したがって、個人としても王国としても、あるいは世界全体としても、一〇年後にはより多くの富を生み出すなどと考えるのは、割の悪い賭けに思えた。ビジネスはあたかもゼロサムゲームのように見えた。もちろん、あるベーカリーが繁盛することはあるだろうが、その場合には隣のベーカリーが犠牲になる。ヴェネツィアが繁栄するかもしれないが、そのときはジェノヴァが窮乏することになる。イングランド王が富を増すには、フランス王の富を奪うしかない。パイの切り方はいろいろあっても、パイ全体が大きくなることはけっしてありえないのだ。

これにもびっくり。自分は当然のように「より豊かな未来」を想像するけれど、これも現代的な発想だったのか〜!大昔の人も「工夫してやっていけば自分たちの生活は楽になる」と考えて行動していたのだと、勝手に思っていました。

過去五〇〇年の間に、人々は進歩という考え方によって、しだいに将来に信頼を寄せるようになっていった。この信頼によって生み出されたのが信用で、その信用が本格的な経済成長をもたらし、成長が将来への信頼を強め、さらなる信用への道を開いた。

なるほどねぇ。

資本主義は「資本」をたんなる「富」と区別する。資本を構成するのは、生産に投資されるお金や財や資源だ。一方、富は地中に埋まっているか、非生産的な活動に浪費される。非生産的なピラミッドの建設に資源を注ぎ込むファラオは資本主義者ではない。スペイン財宝艦隊を襲い、金貨のぎっしり詰まった箱をカリブ海のどこかの島の砂浜に埋めて隠す海賊は資本主義者ではない。だが、自分の収入のいくばくかを株式市場に再投資する勤勉な工場労働者は資本主義者だ。

資本ってのがなんなのか、理解が深まりました。

資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善である、あるいは、少なくとも至高の善に代わるものであるということだ。

自分はすっかり染まってしまっているなあ。別にこれがすべてというわけではないのに、1983 年生まれの自分は「世界とは、そういうものだ」と思い込んでしまっている節があると気付きました。これは時代に押し付けられた価値観だったのか。

資本主義と消費主義の価値体系は、表裏一体であり、二つの戒律が合わさったものだ。富める者の至高の戒律は、「投資せよ!」であり、それ以外の人々の至高の戒律は「買え!」だ。

ハッとしますねぇ。我々の多くは資本主義の傀儡であり、消費主義の奴隷なのかもしれませんな。

個人のありかたについて

資本主義からつながる話として、「個人」についてのお話もありました。

産業革命は、人間社会に何十もの大激変をもたらした。産業界の時間への適応は、ほんの一例にすぎない。その他の代表的な例には、都市化や小作農階級の消滅、工業プロレタリアートの出現、庶民の地位向上、民主化、若者文化、家父長制の崩壊などがある。  とはいえ以上のような大変動もみな、これまでに人類に降りかかったうちで最も重大な社会変革と比べると、影が薄くなる。その社会変革とは、家族と地域コミュニティの崩壊および、それに取って代わる国家と市場の台頭だ。私たちの知りうるかぎり、人類は当初、すなわち一〇〇万年以上も前から、親密な小規模コミュニティで暮らしており、その成員はほとんどが血縁関係にあった。認知革命と農業革命が起こっても、それは変わらなかった。二つの革命は、家族とコミュニティを結びつけて部族や町、王国、帝国を生み出したが、家族やコミュニティは、あらゆる人間社会の基本構成要素であり続けた。ところが産業革命は、わずか二世紀余りの間に、この基本構成要素をばらばらに分解してのけた。そして、伝統的に家族やコミュニティが果たしてきた役割の大部分は、国家と市場の手に移った。

うわあ、直近 2 世紀くらいの話だったのか。

そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。「親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老らが眉をひそめようとも、何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けないとしても、どこでも好きな所に住めばいい。あなた方はもはや、家族やコミュニティに依存してはいないのだ。我々国家と市場が、代わりにあなた方の面倒を見よう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、職を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか」

「人それぞれ、個人が個人であれることが大事」って価値観も、めちゃくちゃ最近のものなんだな〜。

ロマン主義の文学ではよく、国家や市場との戦いに囚われた者として個人が描かれる。だが、その姿は真実とはかけ離れている。国家と市場は、個人の生みの親であり、この親のおかげで個人は生きていけるのだ。市場があればこそ、私たちは仕事や保険、年金を手に入れられる。専門知識を身につけたければ、公立の学校が必要な教育を提供してくれる。新たに起業したいと思えば、銀行が融資してくれる。家を建てたければ、工事は建設会社に頼めるし、銀行で住宅ローンを組むことも可能で、そのローンは国が補助金を出したり保証したりしている場合もある。暴力行為が発生したときには、警察が守ってくれる。数日間体調を崩したときには、健康保険が私たちの面倒を見てくれる。病が数か月にも及ぶと、社会保障制度が手を差し伸べてくる。二四時間体制の介護が必要になったときには、市場で看護師を雇うこともできる。看護師はたいてい、世界の反対側から来たようなまったくの他人で、もはや我が子には期待できないほど献身的に私たちの世話をしてくれる。十分な財力があれば、晩年を老人ホームで過ごすこともできる。税務当局は、私たちを個人として扱うので、隣人の税金まで支払うよう求めはしない。裁判所もまた、私たちを個人と見なすので、いとこの犯した罪で人を罰することはけっしてない。

わはは。とんだ皮肉ですね。国家と戦う個人ってのは、タイムマシンで過去に行って自分が生まれる前に親を消す、みたいなパラドックスを生じさせるのか。これも考えたことがなかったなあ。自分は「個人」というのは自然発生的なものだと思っていた節があるな、と気付くに至りました。

消費主義と国民主義は、相当な努力を払って、何百万もの見知らぬ人々が自分と同じコミュニティに帰属し、みなが同じ過去、同じ利益、同じ未来を共有していると、私たちに想像させようとしている。それは噓ではなく、想像だ。貨幣や有限責任会社、人権と同じように、国民と消費者部族も共同主観的現実と言える。

まさにそうですね。今日もぼくらはハッシュタグでつながってしまうし、そのつながりに居心地のよささえ感じてしまう。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ。

この二世紀の変革があまりに急激だったために、社会秩序の根幹を成す特徴にまで変化が起こった。社会秩序とは元来、堅固で揺るぎないものだった。「秩序」は、安定性と継続性を含意していた。急速な社会変革は例外的で、社会の変化はたいてい、無数の小さなステップを積み重ねた結果として生じた。人間には、社会構造を柔軟性のない永遠の存在と見なす傾向があった。家族やコミュニティは、秩序の範囲内において、自らの立場を変更しようと奮闘するかもしれないが、私たちは自分が秩序の基本構造を変えられるとは思いもしなかった。そこで人々はたいてい、「今までもずっとこうだったし、これからもずっとこうなのだ」と決めつけて、現状と折り合いをつけていた。

歴史を鑑みると、今の人類に対して「変化を受け入れろ」と強要するのは、なかなか厳しいことなのかもしれませんね。とはいえ変化は決してぼくらを待ってはくれないけれど。

人類の幸福と、超ホモ・サピエンスについて

サピエンス全史の上下巻を通しての「締め」という雰囲気が濃厚になる、終盤へ。

ざっくりいうと、人類史において「革命」と語られる変化もいくつかあったけれど、我々の幸福度はさほど上がっていないようだ、と書いてありました。ほいじゃあ、ぼくらはいったいなにを追い求めてここまでがんばってきたんでしょうね…?

そのうえ、人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進歩してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。

これだけ読むと、はちゃめちゃに悲しい生き物に思えてきますね。

なのでまぁ、ぼく個人の目線でいえば「人類の幸福」なんていう大層なことは考えずに、自分と、奥さんと、北海道にいる親と兄弟と、日常的に接点のある数え切れるくらいの人たちの「日々の、ちょっとした楽しい感じ」を大事にして、毎日を過ごして、ゆっくりゆっくり死を目指して歩いていくという、どこかで聞いたことのあるような人生観でやっていくのがちょうどいいんだろうなって思いました。

サピエンス全史と題された長編を読んで「楽しく生きていこう、っと」という感想になっちゃうんだから驚きますよね。まごうことなき小並感です。

書籍にはちょっとした未来予想も書いてあって、それこそ 2045 年のシンギュラリティとか、超人類みたいなところまで言及がありましたが、それについてこのエントリで言っておきたいことは特になかったので省略します。

まとめ

サピエンス全史の下巻を読み終えたので、読書メモを書きました。

サピエンス全史(下) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

上巻と同様、人類の歴史を知ることで「自分はいったい何者なのか」「自分のこの価値観は、どこからきたものなのか」を見つける手掛かりをたくさん提供してくれる書籍でした。ぼくが「これが自分だ!」と感じてきたことの大半は、別に自分のものではなくて、時代に属するものが多いのだなぁと感じて、ちょっと虚しくなったような、でも肩の荷が下りたような、不思議な感覚を覚えました。

けっこう長いんで自分のように読むのが遅い人にはオススメしにくいですが、中身がおもしろいよ、というのはこうして明記しておきます。興味がある人はぜひぜひ。

…と、ぼくがのんきに読んでのんきにオススメしているけれど、もうホモ・デウスの日本語版も出ています。レビューとかを見て、いちばんいいやつを選んでください。

おもしろかったら、いいジャン!してね

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漫画「ワールドトリガー」を2018年に語る

2018-12-03

このエントリは 2018年オススメのマンガ Advent Calendar 2018 の参加エントリです。まずは、素敵なカレンダーを用意してくれた @gamu1012 さんに敬意を表したいと思います。@gamu1012 さんは素晴らしい、おれのサイドエフェクトがそう言ってる。ありがとうございます!

ちなみに去年は2017年に読んだ漫画たちというエントリを書きました。今年もリストアップするエントリを書くかもしれませんが、本エントリはひとつの作品を選んで語る形式でいきます。おすすめの漫画はたくさんあるのでなにについて書こうかはいろいろと迷ったのですが、最近は「多くの人にこの漫画を知ってもらいたい…!」というテンションよりも「この漫画について語りたい…!」というテンションの方が強かったので、後者で行くことにします。

というわけで、2018 年に連載が再開されてファンたちが歓喜した「ワールドトリガー」について語っていきましょう。

(以降、若干のネタバレ成分を含みますので、これからワールドトリガーをまっさらな気持ちで楽しみたいという方は、ここで引き返すことをおすすめしておきます)

ご多分に漏れず、ぼくもワールドトリガーは大好きです。なので、体調不良による休載の報を受けたときはとても悲しくなりました。集英社さんにおかれましては、漫画家という職業がブラックな労働環境に陥らないように、少しずつでも改善を続けていってほしいと願っております。ひとりの漫画ファンとして。

さて、悲しい話題からスタートしてしまいましたが、なんとか連載が再開され、このエントリを書き終えて日付が変わるころには 19 巻がぼくの Kindle に降ってくるはず。とってもウキウキしながらこの時間を過ごしています。

(2018-12-05 追記) このエントリを書いた翌日に発売となったワールドトリガーの 19 巻を読むと、集英社の編集さんは葦原大介さんの体調をだいぶ気遣っていたように感じられましたので、集英社さんが悪いみたいに書いたぼくの文章はフェアではなかったな、と思いました。ごめんなさい。

ワールドトリガーの世界の居心地の悪さと居心地のよさ

今年の 10 月に、ワールドトリガーに言及したいくつかの文章がウェブ上で話題になりました。

上記 3 つはぼくもじっくり読みまして、じゃあ自分はワールドトリガーをどんなふうに捉えているかな〜と考えることになり、ひとりで楽しめました。こういうことをひとりで考えてひとりで楽しめるのは、オタクの便利なところですね。

もやもやした居心地の悪さというのが長らく自分の中で言語化出来なかったのだが、最近それが「登場人物がしっかり思考して動いている」ことに起因するのではないかと思い当たり、少し愕然としている。

なるほど〜。

暴走したキャラクターによって足を引っ張られるように展開していく物語が好きかと問われればむしろ苦手と言ってしまうタイプで、シン・ゴジラなんかはむしろゴジラ版お役所緊急事態お仕事もののノリでかなりのめり込めたしよく出来た映画だと思ったのだが、思春期の少年少女もそろって「物分りの良い」「良く出来た」キャラクターとして描かれてしまうと、ストレスの無さが行きすぎてむしろ居心地の悪さを感じてしまうのかもしれない。自分自身中学生や高校生の頃はおろか、一応の社会人になった今でも彼らのように理性的に動くことができる自信は全く無い。

そうですね、登場人物たちを見て「みんな、年齢のわりにはずいぶんと大人だな」というのはぼくもそう思います。同時に、自分は彼ら彼女らの相対的な年齢 (誰が先輩で誰が後輩か等) には確固たる意味を感じつつも、絶対的な年齢にはそれほど意味を感じていないのだな〜と気付きました。たとえば、すべての登場人物に +5 歳しても物語は成立しそう、と感じているということです。極端な例で +30 歳してしまうと、40〜50 代のおじさんおばさんが跳んで舞う画になってしまうのでズレてきてしまうでしょうけどね。彼ら彼女らに中高生が多いというのは、少年ジャンプの漫画だからじゃん、くらいに軽く捉えているところがありそうです。

逆の意見も見てみましょう。

俺がワールドトリガーが好きな理由は、主人公を含めて主要登場人物が論理的に、頭を使って戦いを展開して、無駄な事、馬鹿気た事、愚かな事は基本的にしないからだと言える。多少の浮き沈みや、大きな失敗があっても、前を見てロジカルに状況に対処し自分を成長させていくキャラクタが多いほどいい。

ふむふむ。

感情が赴くままに、最悪の判断をしては味方をピンチに追いやったりすると、かなりメンタルゲージが下がる。精神的に弱すぎる奴も同じ理由でダメ。典型的な絶対にダメな主人公が、幕ノ内一歩(はじめの一歩)。突出するな退けと言われてんのに突っ込んで味方の犠牲を増やす奴とか、死んで主人公が変わんねーかなと思うし、考えなしの脳筋とか生きてる価値あんの?って感じになる。

ぼくはどちらかということこっちに近くて、ワールドトリガーの登場人物たちは「見ていて共感できる、安心できる」ところがあります。ぼくは日本の地上波で放映される恋愛ドラマのうち 8 割くらいは「まっったく共感できない」という感じで、そういうシーンが一度でもあるとその作品はもう楽しむことができなくなっちゃうという感じでなかなか困ったものなんですが、その点、ワールドトリガーはありがたいです。

こうして、ある意味で「両極端な感覚」が散見されたわけですが、これって各人が「自分のまわりの環境になにを求めるか」に依るんじゃないかな〜という仮説を持つにいたりました。周囲に対して「論理的であってほしい、行動には理由があってほしい」と潜在的にでも顕在的にでも思っている人と、「理屈とかじゃなくて、そのときの気持ちを大事にしてほしい、直情的であってほしい」と思っている人と。どっちのタイプかによって、ワールドトリガーを読んだときに居心地が悪く感じるか、居心地がよく感じるか、わかれるんじゃないかな〜と。これはつまり、ワールドトリガーの登場人物たちが同僚になったらどうか、みたいな話なんじゃないかと思ったわけです。

ワールドトリガー界の感情的なキャラ

とは言ったものの、感情的なキャラというか、理屈で動いているわけではないキャラというのもいて。「ガロプラのレギーの暴走」については、作者の葦原大介さんも「こういうキャラがいると展開をつくりやすい」と明言しています。「落ち着いたキャラが多い」というのも作者が認めていますね。

同じくガロプラ侵攻のときの「林藤陽太郎の疾走」についても、実力派エリートの迅さんは「やれやれ」という顔をしてはいますが、葦原さん的にはヨシヨシという感じなんじゃないでしょうか。

他にも、子どもっぽさを残しているキャラとして香取、緑川、木虎たちもいて、あらためて見てみるとみんな感情自体は豊かなのかもなあ。それをそのまま行動に移して場を乱すってことを避けているだけであって。まあ、それが冷静ってことなんですけれど。

難しいことへの挑戦

感情的なキャラがいると展開をつくりやすい、と作者も認めた上で、だけれどもそれに頼らない展開を作ろうと挑戦しているように見えて、ぼくにはそれがきっと痛快なのだと思います。大規模侵攻の最中の緊張感と、きれいにまとまったあとの爽快感。あれは、キャラがはちゃめちゃに暴れて短期的な盛り上がりをつくっただけでは得られない感覚でしょう。

それを支えているのは迅悠一のサイドエフェクトだろうなぁと感じて、実力派エリートは作品の中だけではなく外においても活躍していて、さすがのエリートだと納得するわけです。

まとめ

ワールドトリガーについて思っていることを散文形式で書いてみました。ふだん、あまりこういう形式の文章は書かないので、自分としても楽しかったです。ワールドトリガーは大好き!とあらためて確認できたのもよかった。

2018年オススメのマンガ Advent Calendar 2018 には、まだ空きがあるのでぜひあなたの漫画トークもお聞かせください。それでは、よい漫画ライフを〜。トリガー起動!

おもしろかったら、いいジャン!してね

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書籍「NETFLIXの最強人事戦略」を読みました

2018-11-21

NETFLIXの最強人事戦略~自由と責任の文化を築く~がおもしろそうだったので読みました。ちなみにぼくは Netflix のサービスは一度も利用したことがないので、完全に組織のお話として読みました。

2018 年 9 月にはぼくの身近なところから「読んでいる」「読み終わった」という声が聞こえてきていて、どうしよっかな、自分はこれはスルーでいいかな…とか思っていたはずなのですが、なにかの拍子に「よっしゃ、読む!」となって読みました。購入日は 10 月 9 日。たしかそれから 1 週間くらいで読み終わったはず。ぼくにとってはスイスイと読み進められる本でした。

ぼくといっしょにお仕事をする人へ

現在の同僚たち、あるいは未来の同僚向けと言ってもいいかもしれません。この本を読み終わって「ぼくは、こういうつもりだな」というのをいくつか確認できたので、明記しておきます。

  • ぼくが真に向き合うべきお仕事がなくなったら、すぐに退職を勧めてほしい
    • 「じゅーんさんの次のポストを用意しなきゃね」みたいな、介護的な扱いになるくらいだったらすぐ解雇されたい
    • 解雇する、ってお話になったらぼくは冷静にまともに受け止めることを約束するので、遠慮なくきてください
  • 同僚たちひとりひとりを、自立した大人としてリスペクトして接していきたい
    • 気を配りはするけれど、変に気を遣ったりはしない
    • 相手を過少評価して情報や権限を制限したりしてチームの生産性が下がっていたらダサすぎる
    • 親子関係における過保護もけっこうダサいと思うのに、同僚に対して過保護になっちゃったらもうダサすぎる
    • 自分の心配や恐怖を最小化するより、組織としてのパワーを最大化する方針でやっていきたいんだ
  • ひとりひとりに「問題を解決できる力」があると信じて、自力での解決を促していきたい
    • 協力できることがあったらやります、でも代わりに解決してあげる〜みたいなことはしません
  • フィードバックをして、フィードバックされる習慣を日常に取り入れていきたい
    • いっしょに練習したいので「上手になりたい」と思っている人は話しかけてください、いっしょにやりましょ〜
    • 単方向ではなくて双方向のフィードバックでやっていけるとさらによい
    • フィードバックがうまく伝達しなくなった系は、ゆるやかに死んでいくと思っています
    • うまくまわっていない場合は「いつでもどうぞ」よりもっと踏み込んで、自分から回収しにいくくらいでちょうどいいのかも
  • 境界を活用できるところでは活用して、足枷になりそうなときには無視して働いていたい
    • 「部署がちがうから」「職種がちがうので」「文化がちがうから」系の言い訳をしない縛りプレイで
  • これを書いている今、本当に思っていることだけを書いていますが、時間が経ったら気持ちは変わると思います
    • 安全に立ち止まることよりも、転んでもいいから前進を続けることを好みます
    • なので、せっかく読んでもらったことも期限切れになっているかもしれない、そのときはごめんなさい!

読書メモ

多くの企業がいまだにトップダウンの指揮統制方式にしがみつきながら、「従業員エンゲージメント」を高め「エンパワメント」を促すための施策でうわべを飾り立てている。

ふむふむ。

言葉倒れの「ベストプラクティス」がまかり通っている。たとえば人事考課連動型のボーナスと給与、最近流行りの生涯学習のような仰々しい人事施策、仲間意識を育むための楽しい催し、業績不振の従業員に対する業績改善計画(PIP)など。こういうことをすれば従業員の力を引き出し(エンパワメント)、やる気を促し(エンゲージメント)、仕事に対する満足度と幸福度を高めることができ、それが高い業績につながるという思い込みがあるのだ。

なるほど。刺激的。

私は血気盛んなスタートアップの世界に足を踏み入れてから、人にもともと力があることを、以前とはちがう視点から深く理解するようになった。従業員に力を与えるのではなく、あなたたちはもう力をもっているのだと思い出させ、力を存分に発揮できる環境を整えるのが、会社の務めだ。そうすれば、彼らは放っておいてもめざましい仕事をしてくれる。

「あなたたちはもう力をもっているのだ」これはモンテッソーリ教育っぽい成分を感じるな。

ネットフリックスでは、規律をもって実践してほしいと経営陣が思う行動を、全員にあますところなく繰り返し伝えた。まずマネジャー全員から始めた。会社の哲学と経営陣が実践してほしいと望む行動を、一人残らずすべての人に理解してもらいたいとの強い思いから、リードはそれを説明するためのパワーポイント資料をつくり始め、私とほかの経営陣が一緒に完成させた。これが、ネットフリックスの「カルチャーデック」(略してデック)という名で知られるようになった資料だ[ Deck は甲板の意味。甲板にすべてを並べるように全項目を列挙した資料]。読んでくれた人も多いだろう。

「マネジャー全員から始めた」ってところがいいと感じた。デックは読んだよ。それで興味を持って本書も読んだんだよ。

またこの資料は経営陣が従業員に求める行動であるとともに、従業員が経営陣に求めるべき行動でもあることを、はっきり説明した。

ぼくは単方向より双方向性のあるものが好きなので、これも好き。

これから経費規定を廃止します。旅費規定も廃止します。適切に判断して会社のお金を使って下さい。もしも弁護士のいう通りまずいことになるようなら、もとの方式に戻します」。このときも、従業員は自由を乱用することはなかった。従業員を大人として扱うとよい成果が得られること、また従業員もそれを望んでいることがわかった。

管理コストが激減して、失うものが別にないっていうなら、それはいいね。

コミュニケーションは双方向でこそ成り立つ。従業員は質問をするだけでなく、自分の意見や考えを述べることができなくてはならない。CEOを含むすべてのマネジャーを相手にそうできるのが理想だ。 新入社員大学では、本題に入る前に参加者に念を押した。「今日は自分から働きかけなければ何も学べません。質問をしなければ、答えは得られないわよ」。今から思えば、これがネットフリックスの初期の成功の布石だった。このひと言で、あらゆるレベルの従業員が、自分に期待されている行動についてであれ、経営陣の下した決定についてであれ、誰に対しても遠慮なく説明を求めることを許されたのだ。従業員がよりよい情報や知識を得ただけでなく、やがて社内全体に好奇心の文化が生まれた。そして従業員の鋭い質問が重要な発見につながることも多かった。

組織にフィードバックの組織を持たせることができるかどうか。フィードバックを受けられなくなった生命は死に向かうとぼくは考えているので、フィードバック器官の設計は重要視したい。いつでもなんでも聞ける、ってのはいいなあ。今の自分は必ずしもそういう状況にないな、と少しうしろめたい気持ちになる。ごめんなさい。

若い人たちにビア樽からビールを注ぐ方法を教える代わりに損益計算書の読み方を教え、オンラインのコラボレーション講座を受けさせる代わりに本物の協働プロジェクトを与えれば、一生もののスキルを身につけ、生涯にわたる学習の何たるかを理解するだろう。

こういうの、職種に依るんですかねぇ。たとえば取引先との飲み会の機会があるようなお仕事だったら、宴会マナーみたいなやつを身につけておいた方がいいの?や、お話が横道に逸れてしまったな。

ネットフリックス文化の柱の一つに、「同僚や同僚の仕事のやり方に不満がある場合、当人同士で、できれば直接顔を合わせて話をする」というルールがあった。陰で批判をしてほしくなかった。私は人事部長だったから、マネジャーが部下などの文句を私のところにしょっちゅういいにきた。私の答えはいつも同じだった。「本人とはもう話したの?」

これも耳が痛い系だなあ。もし、自分が誰かの代わりに問題解決のために走り回っていたら、それは、彼ら彼女ら自身のセルフマスタリーに向かう機会を奪ってしまっているかもしれない。だとしたら、今後はナシにしたい。

ネットフリックスで私たちはエリックが話してくれたような、徹底的に正直なフィードバックが重要だという信念を広めることに努め、マネジャーたちが自信をもってフィードバックを与えられるように指導した。私が主に時間をかけていたとりくみはこれだった。

「フィードバック」はキーファクターという感じだなあ。ぼくがお仕事でいっしょになるような人たちと、いっしょにフィードバックの送受の練習をしたい。

ネットフリックスの経営陣はあの手この手で、正直な姿勢を率先して示した。その一環として、チームミーティングで「スタート・ストップ・コンティニュー」と呼ばれるエクササイズを行った。各人が誰か一人の同僚に対して、始めてほしいことを1つ、やめてほしいことを1つ、とてもうまくやっていて続けてほしいことを1つ伝えるのだ。私たち経営陣は透明性の価値を固く信じていたから、経営会議でみずからこれを行った。そしてそれぞれが自分のチームに戻り、経営会議の「スタート・ストップ・コンティニュー」で誰がどんなことをいわれたかを全員に話して聞かせた。そうするうちに、オープンな姿勢が大切だという認識が、社内中にさざ波のように広がっていった。

これめっちゃいいな…。KPT に似ている印象もある。やってみたい。小さく始められる方法はないか、と考えてみる。

最初システムでは匿名でコメントを送る方式にしていたが、例のごとく、エンジニアから反対の声が上がった。経営陣はオープンで正直であれといいながら、透明性を欠くツールを提供するとは何事か、というのだ。彼らはコメントの本文に自主的に署名し始めた。

痛快で、ちょっと笑った。そういやぼくも、匿名アンケートに「おつかれさまです june29 です」って書いたことあるな。

経営上層部は、事業に関する問題を従業員に知らせると不安が高まると考えがちだが、知らせない方がずっと不安を煽ることになる。

これも「大人扱い」「子ども扱い」の話に帰結しそう。

「直感に基づいて行動することも多いから、データを読みとれるほどスマートで、データを無視できるほど直感力に優れた人材を探すようにしている」

番組制作チームの話。めちゃくちゃ高度なことをさらっと言っていてすごい。

スティーブ・マクレンドンはオープンな議論の利点について、もう一つすばらしい指摘をしてくれた。多くのマネジャーが扱いに悩む若者たち(あの厄介なミレニアル世代)は、こうした透明性や、自由に質問できる機会を好むのだという。

「厄介」とか、冗談でも言うなよな〜。失礼でしょうが。

それはそれとして、言っている内容には「なるほど」と思うものがある。経営上の難題についての議論がオープンになされるというのはどういう状況なのだろう。ぼくもいろんな会社のそういった議論を観劇してみたい気持ちがあるぞ。楽しそうじゃん。

スティーブは上司に、従業員の面前で議論するのはよくない、「親の喧嘩を見せられるようなものだからだ」と諭されたが、「若い社員を管理するには、旧態依然のトップダウン方式より、ネットフリックス文化の方がずっと適していますよ」と反論したそうだ。彼らが興した会社では、スタートアップによくあるように、とても若い人材を多く採用している。若者たちが事業の全貌を学ぶことにとても熱心で、透明性の高い文化を好むことにスティーブは気がついた。未来をつくるのは若者であり、彼らの知識欲を活用する方法を考えることは、すべてのビジネスリーダーの利益になる。

自分の心配を最小化する方針より、後輩たちの成長を最大化する方針を選ぶ、ってことと理解した。そうありたい!今まで、完璧にそのようにはふるまえていなかったと思う。今日からそういう先輩になりたい。なっていこう。

ネットフリックスでは、自分の成長には自分で責任をもち、輝かしい同僚や上司から学ぶ多くの機会を活かして、社内で昇進するなり、社外のすばらしい機会をものにするなり、自分の道を切り拓いてほしいと促した。

なるほどなあ。機会はあるぞ、と。それに手を伸ばすかどうかは任せるから、手を取って引っ張るようなことはしない、って感じなのかな。またしても「大人扱い」成分。

草創期の成功を支えた柱は大事にすべきだし、会社が順応し成長してもそうした要素をもち続けることはできる。だが変化への抵抗感を生むノスタルジアは、不満をかきたて、成長を阻むことが多い。

へぇ、そうなんですね。これは自分にはあまりピンとこなかった。これについて感じるものがある人は教えてほしい。

ネットフリックスでは人材管理に関して3つの基本方針があった。一つ、優れた人材の採用と従業員の解雇は、主にマネジャーの責任である。二つ、すべての職務にまずまずの人材ではなく、最適な人材を採用するよう努めること。三つ、どんなに優れた人材でも、会社が必要とする職務にスキルが合っていないと判断すれば、進んで解雇すること。

「解雇」の話はいっぱい出てくるんだけど、この点について日本企業に勤める自分はそれなりの受け止め方をした方がいいよな。そんなにカジュアルに解雇、ってできないんじゃないの。

ただ、ぼく個人が雇い主であるところの勤務先に宣言しておくとすれば、ぼくの能力が組織に必要ない状態になったらいつでも「辞めてほしい」と言ってきてほしい、ということです。「じゅーんさん用のポジションを用意しなきゃな」みたいに、介護みたいな状態になるくらいならぼくは退職したいので、そういう状況になったら、ぼくのためだと思ってすぐに「辞めてくれ」と言ってください。冷静にお話に応じることを約束します。

その意味で、従業員定着率はチームづくりや文化のよしあしを測る指標に適さないと、私は考える。

これは読者がドキッとするとわかって書いていそうですね。鋭い発言に思う。

最適な人材を探すうえで大切なのは、「カルチャーフィット(文化の適合性)」ではない。カルチャーフィットがよい人とは、一緒にビールを飲みたい相手だというくらいの意味しかない。この方法で人材を探すのは、往々にして激しくまちがっている。会社が必要とする仕事に合致したスキルをもつ人材には、じつにさまざまな個性をもった人がいる。

多様性の話だ。これもけっこうドキッとするなあ。カルチャーフィットを重視している現場は多いと思う。もうちょっと注意深く深掘りしてみたいトピックですね。

組織はいろんなスタイルの人に合わせることができる。カルチャーフィットは双方向に働くのだ。

なるほどなあ。そこにいる人に合わせて、会社も変われるのだなあ。

でも「カルチャーデック」と呼ぶものがあり、それを超重要視しているところを見るに、ここで言っているのは「ノリ」みたいなものなのかな、と思ったりした。

私たちがめざしたのは、面接に来てもらったすべての候補者に、その職務に就きたいと思ってもらうことだ。たとえ私たちが彼らを気に入らなくても、彼らにはこう思ってほしかった。「いやあ、すばらしい面接だったなあ。効率的で、効果的で、時間通りで、質問は的を射ていて、担当者はスマートで、尊厳をもって扱ってもらえた」と。部下にはいつも、「たとえその人がうちに合わなくても、その人の隣人はうちにぴったりかもしれないでしょう」といっていた。

さて8か月後、私たちはWiiへの配信を祝う盛大なパーティーに出ていた。ベサニーは私の隣に立っていた。彼女が涙ぐむのを見て、どうしたのと聞くと、彼女はいった。「ううん、私があのチームをつくったんだなと思って。今日のWiiへの配信に、私も一役買ったのね!」そしてチームは挨拶を求められると、こういった。「ベサニー・ブロツキーに感謝します。君がいなければ、僕らが今日ここに立つこともなかった!」これぞ私がリクルーターに自分の貢献について感じてほしかったことであり、すべてのマネジャーにリクルーターの価値について理解してほしかったことだった。

「パーティーとか別にどうでもいい」みたいなスタンスはあるんだけど、それはきっと「交友のためのパーティー」のことを指していっていて、一方で、みんなで偉大な仕事に向かっていって、偉業を成し遂げたときにはみんなでそれを祝う、みたいな空気はすごい感じる。中心に「挑戦」や「価値」を置いている感じで、なれあいとかコンフォートゾーンを嫌っているんだろうな。

「こういう人財が必要だ!」と明確にして、そういう人を雇うところからプロジェクトが始まり、うまくいったときには採用担当さんもいっしょにプロジェクトの成功を祝う。ぼくはこれまでの人生の中でこれほど一体感を感じられそうなプロジェクトには関わったことがない。体験してみたいな。

解雇しようとしている従業員に、私はこんなことをいった。「さて、あなたがチームリーダーのタイプではないということを確認したわね。でもそれは問題ない、あなたはとても優秀なエンジニアだから。あなたの技術力については喜んで推薦させてもらうわ。ただ、人材管理能力の推薦状がほしければ、ほかの人をあたってちょいだい」

組織を去っていく人を推薦状や転職活動用の資金を添えて明るく送り出す、ってのは「ティール組織」にも見られた習慣のはずだ。同僚を家族と捉えてしまうと「今生の別れ」みたいな感じになっちゃって悲しいけど、そうじゃない雰囲気になるのはぼくは好みだな。

従業員が力をもっていることを忘れてはいけない。あなたの仕事は、彼らに力を与えることではない。彼らの力を認め、時代遅れの方針、手続き、制度を廃止して、力を解放することだ。それさえ行えば、彼らはパワフルになる。

うむ!みんなでパワフルになりたい!

まとめ

NETFLIXの最強人事戦略~自由と責任の文化を築く~を読みました。ぼくは頭からお尻まで楽しみながら読みました。

自分のところの組織文化について、ここまで勇敢に語れる人がいるってのは素晴らしいですねぇ。ぼくが気軽に会いに行ける人で、これくらい語れる人って誰かいるかなあ。メルカリの組織は達成型?ティール型?これからの社会における組織開発とは - メルミライ - 未来を見るメディアに登場する唐澤さんはすごいな、と思いました。こういう人とお話してみるとおもしろそう。

ひとつの未来に向かって、すべてをその軸に照らし合わせて判断して、勢いよく進んでいく。そんなチームは、今日までの自分が作れたことはないので、もし達成できたらすごく楽しいのかなって思いました。そういうことをできる人間になれたら、自分を誇らしく思えたりするのかしら。なんてことを思わされる本でした。

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書籍「進化的アーキテクチャ」を読みました

2018-11-20

オライリー本がひとつ、「進化的アーキテクチャ」を読みました。実際に読み進めていたのは 2018 年 10 月の下旬で、ようやっと落ち着いて読書記録を書ける状況になったので書きます。

書籍の公式サイトに加えて、翻訳を担当された Koji Shimada / 島田浩二 (@snoozer05) さんによる紹介記事にもリンクしておきます。熱の感じられる紹介文で、紹介したくなるからです。

多かれ少なかれ、やっていること

ぼくが現職の同僚や、これまでにお仕事でごいっしょさせてもらったソフトウェア・エンジニアを思い浮かべると、本書に書かれているような考えは、誰しもが多かれ少なかれ実践していることだな〜と思いました。「最初にしっかり設計したから、あとはもう安泰!余生を楽しみましょう」なんてスタンスで継続的なソフトウェア開発に携わっている人を探す方がむつかしい。

ふだんぼくらが考え、実践しているようなこと。そのロジックを整理して突き詰めるとこういう話になるのだろうな、という印象を持ちました。

自分にはけっこう難しく感じられた

それでいうと、ぼくは「チョット ヤッテイル」という現状なのだと思います。たとえば本書の内容に倣って、なにかしらのプロジェクトで「とりあえず、騙されたと思って 1 から 10 までこの本の通りにやってみよう」と決意したとしても、実際になにをどこまでやったらよいかは自明ではありません。

継続的インテグレーション、あるいはダッシュボードのような

適応度関数の話を読んでいて、ぼくはずっと「継続的インテグレーション」っぽい話かな、と感じていました。もし、自分たちのシステムが満たすべき「◯◯性」と呼ばれるような性質をすべて列挙できて、かつ、ひとつひとつを定量化できたとして。そうすると、ソフトウェアに変更を加えようとするたびに、もしくは毎日の決まった時刻に、CI を走らせて Green か Red かを判定できるはずですよね。これはたしかにおもしろいと思います。

あるいは、チームの視界に入りやすいように目立つところにディスプレイを置いて「今月の売上」「目標まであと◯◯円」と示すような感じで、ビジネス上の KPI と同列に「デプロイ回数 / 日」だとか「セキュリティ的観点から見た望ましさ」「耐障害性」「パフォーマンス」などが表示されていたら。なんとなくの雰囲気で語られがちな「最近、技術的負債が牙をむいてきたね」「開発スピードが落ちている気がする」「開発効率が〜」「コードの質が〜」といった類のことも、もうちょっと科学的に扱えるようになるのかもしれません。

まとめ

書籍「進化的アーキテクチャ」を読みました。自分の、ソフトウェア・アーキテクチャに関する見識は、まだまだこのレベルまで深化していないし整理もできていないな、と思いました。

適応度関数を設定した先の未来についてはワクワクするものは見つけられたものの、じゃあその適応度関数ってどうやって設定したらいいんだろうなぁというのは自分にはわからなかったので、今日からなにをすべきか〜というのは宿題となりました!

自分の中で「アーキテクチャとは」「設計とは」というのをもっともっと整理できてから読むと、また違った感じ方になるのかもしれません。

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大和田防災会議 2018 を開催しました

2018-10-07

先日、家族全員で集まって「大和田防災会議 2018」というイベントを開催しました。つまり @june29@mamipeko でおしゃべりしたということです。その名称からわかる通り、防災をテーマにした催しです。

ぼく個人は、正直なところこれまで防災を強く意識して過ごしてきたわけではありません。自然災害について完全に他人事と思っているわけではないけれど、具体的に備えるような行動はしておらず、実際に起こってみないとわからないから起こってから考えよう、くらいのスタンスでここまで生きてきたと思います。

そんなぼくが、なぜ防災会議を開催するに至ったのか。

ぼくと自然災害

具体的な自身のエピソードを伴って思い出せる大きな自然災害は、これまでの約 35 年間の人生の中で 4 つくらいでしょうか。

2000 年、ぼくが 17 歳のときに有珠山噴火がありました。ぼくは有珠山の近くの地域に住んでいなかったため直接の被害は受けていません。ただ、夏に漁師さんの家に住み込んでアルバイトをしていて、その家の女将さんの妹さんが被災者だったのです。もともと住んでいた地域には住めなくなってしまったため、姉のところに避難してきて、ぼくと同じように漁のお仕事を手伝っていました。ぼくは「隊長」と呼んで慕っていて、隊長は 50 歳くらいだったかな、今にして思い返してみるといつも笑顔でいたように思います。隊長はぼくの前では悲壮感を出さなかったので気付きませんでしたが、考えてみると、とても大変な状況だったのでしょう。

2003 年、ぼくが 20 歳のときには平成十勝沖地震がありました。記録によれば早朝 4:50 の発生です。当時ぼくは釧路高専の寮に住んでいて、たしかこのときは試験期間中だったはずです。試験前日の夜はだいたい深夜まで起きて試験対策のための時間を過ごす習慣があり、この地震の前日も 3 時か 4 時くらいまで起きていました。前日というか直前ですね。そろそろ寝るか〜、と、横になってから少し経ってからの大地震です。近くだったアベくんのお部屋にいってみると、水槽の中の水が大きく揺れて、金魚が放り出されて床に落下していました。かわいそう。たしか試験は延期になりました。お昼が近くなった頃だったかなあ、アルバイト先の店舗から電話がかかってきて「大和田くん、今日は出勤できる?」と店長に聞かれました。その時期のぼくはレンタルビデオショップで働いていました。出勤すると、お店は散らかってぐちゃぐちゃになっており、お片付けは本当に大変でした。

上京から丸 3 年が経とうかという 2011 年 3 月 11 日、東日本大震災がありました。この日は平日だったから、勤め先のオフィスにいましたね。ぼくは自転車で通勤していたので、電車通勤組の人たちがよさげなタイミングで退勤していくのを一通り見送って、最後に退勤して施錠を担当しました。テレビの画面に映る東北の津波の映像はまるで現実味がなくて、それでも、ひたすらに怖かったのを覚えています。地震の翌朝だったかな、自動停止が作動していたようで自宅のガスが使えないことに気がついて、マンションの廊下に出て、どこかに電話して元栓の開け方を教えてもらいながら開けました。そしたら隣のお部屋の人が出てきて、初対面だったのでごあいさつして、そのお部屋の元栓もいっしょに開けました。

そして今年の北海道胆振東部地震です。ぼくは東京都内にいたためまったくと言っていいほど影響を受けませんでしたが、家族や友人たちが大変な目にあっている様子を見聞きして、胸が苦しくなるのを感じました。北海道に対する思い入れは強く、生まれ育った地と身近な人たちの身に起きたことは、他人事として済ますのはむつかしかったのです。

北海道全域の大停電という衝撃

防災会議の開催のきっかけと言えば、やっぱりこれですね。大停電。

極端な話をすると「住んでいる家が隕石で破壊される」となると、備えようがないじゃないですか。どうしようもない。最悪ケースでは死ぬし、たまたま別の場所にいて命は助かったとしても、家と家に置いてあったものはすべて破壊されるので、あきらめるしかないはず。

しかし「人体も家屋も無事だけど、電気がこない」というのは、備えがモノをいうタイプの事態だと思ったんです。近い将来に「関東大停電」みたいなことが起きたとして、そのときに「備えておけばよかった〜」と後悔したくないな、と思ったんですよ。それで、奥さんと相談して、どこまで備えておくか決めて、行動に移すことにしました。

防災会議で想定した状況

  • 住居は無事、引き続き暮らしていける
  • 2 泊 3 日程度の避難所生活がある
  • 1 週間程度の大停電がある

雑にこれくらいの状況があったとして、という想定で会話していきました。壊滅的な状況よりもイメージしやすいかと思いまして。最近の日本の被災状況を鑑みて、これくらいだったらけっこうありそうだな〜とぼくらが感じられる内容になっています。ほどよいリアリティで危機意識を高める作戦。

備えることにしたもの

これらをひとつにまとめて収納してあります。

  • 防災ラジオ (まだ届いていないので写真には写っていない)
  • LEDランタン 2個セット (まだ届いていないので写真には写っていない)
    • 人数分あるとよい、と聞きました
  • 箱ティッシュ
  • ウェットティッシュ
  • ペーパータオル
  • サランラップ
    • お皿を使いつつお皿を汚さずに食事できたり、なにかと便利と聞きました
  • マスク
  • 絆創膏
  • カセットコンロ
    • お湯を沸かせるかどうか、というのはけっこうな分岐になると思います
  • 非常食とお水
  • ペーパーパンツ
  • 折り畳み式ウォータータンク
  • 歯みがきセットと洗口液
    • 口の中が気持ち悪いと QoL が下がりそうなので、水いらずのモンダミンを買ってみました
  • 綿棒
  • 防寒アルミ
  • 単 3 式充電池 (エネループ)
    • もともと何本かありましたが、ランタンにも使うので買い足しました
  • 東京防災
    • 無料で Kindle 版を買いつつ、紙版も買って防災グッズ中に入れておこうと思います

非常食についてはまだまだ精査中で、まずは平時である今のうちに試食会などやってみて、なるべく自分たちの口に合うものを揃えていきたいと思っています。ビスコはよく知っているおいしい味で最高っぽいですね。しんどいときも心を癒してくれそう。

これからやること

  • 非常食の試食会
  • 初心者向けキャンプでアウトドア入門
    • 趣味でキャンプをする人たちの備えは停電時にもおおいに役立つということで、家族の趣味にアウトドア系のアクティビティを加えるはよさそう
    • 楽しみながら防災するのも大事だと思っています
  • 大和田防災会議 2019
    • 2019 年 10 月に予定を入れておきました
    • 単発で開催して終わり、ではなく、忘れないように意識し続けるようにしたい
    • 消費期限のあるものは年次で「消費して、買い直す」サイクルにしたい

参考にしたもの、謝辞

しっかりと考えるきっかけをくださって、ありがとうございます。役立てたいと思います。

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Rejectcon 2018 で Hi-Ether の話をしてきました

2018-09-30

2018 年 9 月 29 日 (土) に開催された Rejectcon 2018 に参加し、Hi-Ether と Ethreum 関連のお話をしてきました。

もともと builderscon tokyo 2018 に応募したものの採択されず、行き場を失くして成仏できずにいたトークでしたが、Rejectcon 2018 の準備を進めていた @yoshi_hirano さんが声をかけてくれて登壇に至りました。ありがたやありがたや…!

自分のトーク

DAO を目指す Ethereum 技術者コミュニティ「Hi-Ether」の挑戦 - builderscon tokyo 2018

builderscon は個別具体的な技術要素に特化せずに包括的に様々な技術ネタを扱うとされているけれども、実際の参加者のみなさんとお話してみると、なんだかんだでウェブ業界の人が多いな〜と感じます。というわけで「ウェブ業界に身を置いているソフトウェアエンジニア」を想定聴衆像として、ウェブ業界の人に向けてぼくが Ethereum や Hi-Ether について感じている興奮を共有するぞ、という内容にしました。

そういう意味では 2017 年 12 月にこのブログに投稿した Web アプリケーション開発者のための Ethereum 入門 - #june29jp に近い内容で、さらに最近になって興味をひかれている Cryptoeconomics の話題を盛り込みつつ、30 分におさまるようにパッケージングした感じですね。

実は、イベント前の 2 週間くらいの期間に「どんな話をしようかな〜」と情報と思考を整理しているときがいちばん楽しかったかもしれません。登壇機会を利用して自分の頭の中を整理しちゃうやーつ。本当にありがたい機会をいただきました。

ここで話したような内容をたっぷり扱う「Hi-Con 2018」というイベントをやるんで、興味が出てきたぞ〜という人はぜひご参加くださいな!

Hi-Con 2018 を開催します!|Hi-Ether Blog

ひとりの参加者として

はじまりからおわりまで参加させてもらって、すべてのトークを聴くことができました。どれもおもしろかったのですが、ひとつだけ挙げるとしたら ROLLCAKE Inc. の @7gano さんによる「新しい技術書出版サービスの作り方」です。めちゃおもしろかった。

PEAKS(ピークス)|それ知りたい!が本になる、技術書クラウドファンディングを題材としたプロダクトマネジメントの話として聴きました。ストーリーがあまりにも美しかったので、本当にそんなにうまくいったのかよ〜と思わなくもないのですが、世の中に対して価値を生んでいるプロダクトが実在しているわけですから野暮なことは言いっこなしですな。

ぼくもそういうプロダクト開発がしたい、と思わされてしまって。「ROLLCAKE 流」みたいなものは、引き続きウォッチしていきたいです。

まとめ

Rejectcon 2018 に参加してきました。

持ち前の強運によってトークの機会をいただけたのはよかったものの、やっぱり Reject は悔しいので、次は Rejectcon じゃなくて本編でトークするぞ!と決意をあらたにしました。応募したこと自体はよかったと思っています。Reject した犯人であるところの @lestrrat さんのトークを聞いて、ちゃんと採択されるプロポーザルを書こう、もっと言えば、そういうプロポーザルを書けるような実のある日々を過ごそう、という気持ちになりました。

運営のみなさん、発表者のみなさん、参加者のみなさん、ありがとうございました!

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数値の変化をアピールするときの表現について考えたこと

2018-08-15

現代の日本で暮らしていると、日常的になにかしらの数字の変化をアピールする表現に出会うことと思います。

  • 当社比 1.5 倍!
  • 従来型に比べて 300% の性能
  • コストを 2 割削減

自然言語ですから、様々な表現が許容されるのはよいことだと思います。しかし、あまりにも独創的な表現をしていては肝心の「で、なにがどれだけ変わったの?」が伝わりにくくなってしまいます。ぼくが生活の中で目にするものの中にも「結局、前後の数値はどうなの?数値で見せてほしい」と思ってしまうものもあり、自分がアピールする側の立場だとしたら表現は上手にやりたいなぁと感じます。

大事なのは「事実を伝えること」「可能な限り誤解の余地なく伝えること」この 2 点です。こうして書いてみると、他者になにかを伝える上での当たり前のことしか言っていませんね。それでも、ひとつでも多くの文章が誤解なく事実をスムーズに伝えるものでありますようにと願って、ぼくが考えたことをここに書きます。

事実を伝えること

事実以外を伝える内容になってしまう原因は「悪意」「誤認」「無理解」くらいのものでしょうか。

残念ながら「悪意」を持って虚偽の内容を伝えようとする人に対してこのエッセイができることはありませんから無視することにします。続いて「誤認」ですが、これも認識をあらためてもらわないことにはどれだけ表現のテクニックがあっても真実に辿り着くことはないので、終わりがないのが終わりです。

「無理解」に起因して事実ではないことを書いてしまうケースこそ、ぼくがなんとかしたいと思っている対象です。ここでは「通勤」にまつわる数値の変化を考えてみましょう。

通勤所要時間の変化の例

たとえばぼくが引っ越しをして、通勤所要時間が「約 40 分 (引っ越し前)」から「約 20 分 (引っ越し後)」に変化したとしましょう。単純化のために、ここではどちらも秒は無視してぴったり「40 分」「20 分」ということにします。このとき、

  • 通勤所要時間が 50% になった

は、事実と言えるでしょう。では、

  • 通勤速度が 2 倍になった

は事実でしょうか?これはわかりません。なぜなら引っ越し前後の「通勤速度」は明かされていないからです。そもそもを言えば通勤速度という概念を定義して単位を与えるところから着手しないことには論じられませんね。ぼくらの通勤は等速直線運動ではないでしょうから、そう単純に「通勤速度は◯◯です」と言うことはできないはずです。

なんだか、突飛な例になってしまいました。ぼく自身も「引っ越して、通勤速度が上がったんだよね」と言う人とは出会ったことがないので、やや恣意的な例になってしまったでしょうか。

しかしですよ、これが「処理性能」のお話になると、こういう例ってちょいちょい見かけるのです。とあるプログラムがあって、もともと 40 分かかっていたものが 20 分で完了するようになったとき、それは「高速化」として語られたりしませんか?速度にフォーカスするのであれば、変化の前後での数値化された速度を比較して、どれだけ変化したかを示さなきゃいけないわけです。処理時間が短くなった、とアピールしたいのか、処理速度が上がった、とアピールしたいのか、方針に合わせて提示する数値が適切に選択されなくてはなりません。

事実を伝えるには「変化の前後における単位つきの数字を示し、それについてのみ述べる」を遵守することになるでしょう。

可能な限り誤解の余地なく伝えること

「誤解」というものは読み手側に帰するものですから、そう簡単なお話ではありません。だとしても書き手としては、確実に絶対に防ぐことはできないとわかりつつ、可能な限り誤解の余地を小さくする努力をしたいものです。

もう一度、先の「通勤」の例を持ち出してみましょう。

  • [A] 通勤所要時間は 20 分になった
  • [B] 通勤所要時間は 20 分だけ減少した
  • [C] 通勤所要時間は半分になった
  • [D] 通勤所要時間は 5 割減となった
  • [E] 通勤所要時間は 50% 改善した

ひとつの事実を、様々な方法で表現してみました。それぞれをどう感じるか、ぜひとも読者のみなさんにも考えてみてもらいたいところです。

たとえばこれが友だちとの会話だとすると、ぼくは [C] が聞きやすいかな〜という印象です。「最近、引っ越してさ。通勤時間が半分になったんだよね」「何分くらいかかるの?」「もともと 40 分くらいだったんだけど、今は 20 分くらい」「それは楽になったね」というスムーズな会話が思い浮かびます。

[E] はなかなか難しいな、と思います。数値の「増えた」「減った」と比べると「改善した」は数字が増えて改善となる場合も減って改善となる場合もあり得るので、読み手が考えることがひとつ増えちゃうイメージです。

こればっかりは、扱う数値とそれを取り巻く人々のコンテキストに合わせてよいものを選ぶしかないでしょうから、その都度でいくつか候補を出してベターなものを選択するプロセスにするとよさそうです。

個人的には、とにかくシンプルな表現を選ぶのが吉と考えています。「◯倍になった」「△だけ増えた」「□だけ減った」くらいの表現であれば、変化の前後をすんなりイメージできます。逆に「150% アップ」みたいな割合と増減の複合パターンはけっこう解釈を悩んでしまうことが多いです。世の中のあれこれを見ていると「150% になった」のケースと「150% 増えた (250% になった)」のケースの両方が散見されるので、結局のところ数値をじっくりと見ることになって、そうなるとサマライズの意味が失われちゃいます。

まとめ

数値の変化をアピールする表現においては「事実を伝えること」「可能な限り誤解の余地なく伝えること」を大事にしたい、という話を書きました。ぼくが強く意識していることをまとめるとこんな感じになります。

  • 事実を伝えること
    • 変化の前後の単位つきの数値から確実に言えることだけを言う
  • 可能な限り誤解の余地なく伝えること
    • 解釈に幅のある表現を避ける
    • シンプルに「◯になった (became)」「△増えた (increased)」「□減った (decreased)」にする
    • 状況に合わせて適切な表現を選択する

みなさんが心がけていることや気をつけていることなどあれば、ぜひ教えてください!

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CircleCI 2.0 に移行しました

2018-08-14

ここのウェブサイトは Hugo で生成していて、そのビルドとデプロイの自動化のために CircleCI を活用してきました。コミットログを見てみると、CircleCI を導入したのは 2017 年 1 月頃のようでした。

Try auto-deploy with CircleCI · june29/[email protected]

当時は CircleCI 2.0 の Closed Beta が進行していたころですかね。2017 年 3 月には CircleCI 2.0 Beta is Ready for Your Builds という発表が出ていました。ぼくが CircleCI を導入したのはそのちょっと前で、無邪気に 1.0 系を設定してしまっていたのだなあ。そんな CircleCI の 1.0 系は 2018 年 8 月末で提供終了になるとのことで、2.0 系への移行を行いました。

このスクリーンショットは 7 月 15 日にサイトに訪問したときにたまたま見かけた 6 並びのときのものです。かわいいから撮っておきました。

やったこと

  • Hugo の仕組みとは別に、ビルド途中で動かしている Ruby のスクリプトがあったので Golang で書き直した #51
  • hugogo を使える Docker イメージを用意した june29/golang-hugo
  • CircleCI 2.0 の設定ファイルを用意した #52
  • CircleCI 1.0 の設定ファイル、および、関連ファイルを削除した #53

これで無事に CircleCI 2.0 への移行が完了しました。そのあとにエッセイをひとつ書いて、ビルドからデプロイまでが問題なく動くことを確認できました。

https://circleci.com/gh/june29/june29.jp のログを見てみると、1.0 のときはビルドとデプロイにだいたい 120 〜 180 秒くらいかかっていたものが、2.0 では 60 〜 90 秒程度に納まっています。待ち時間が少なくなるといううれしい影響もありました。

夏休み期間中の自分のお道具箱のお手入れとしてちょうどいい塩梅の作業でした。楽しかったです。今後も CircleCI にはお世話になります。

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Slack の Reacji Channeler のすゝめ

2018-08-14

Reacji Channeler という、Slack 社が提供する Slack 用の便利機能があります。明示的にインストールしなきゃ利用できないので、Slack を使いつつも存在を知らないという人も多いように感じています。チャンネル数が少ない Slack Workspace ではそれほど意味をなさない、という性質もありますしね。一方、ぼくが所属するペパボのような数百人規模の組織で活用されている Slack においてはなかなかおもしろい働きをするので、周知のために書いてみようと思い立ちました。

Slack 社、これをどれくらい推したいのかよくわからないのもおもしろいです。公式っぽい機能のわりにはぜんぜんアピールする気配がないような。あと名前がわかりにくい!リアクジ・チャンネラー。たぶん「Reaction + Emoji + Channel」あたりを混ぜて生成された言葉。日本語でいうと「リアクション絵文字チャンネル太郎」みたいなニュアンスだと思います。

Reacji Channeler の機能

使い始めるには導入を済ませる必要があるので Reacji Channeler からエイヤッとお願いします。

導入が済んだら、続いて設定を施していきます。設定といっても作業は簡単で「任意の Emoji を、任意の Channel に紐付ける」それだけです。具体的には Slack の発言入力欄に以下のようにコマンドを打ち込むだけ。

/reacji-channeler :emoji: #channel

そうすると、Slack の発言に :emoji: のリアクションがついたときに #channel にシェアされるようになります。下のスクリーンショットは、ほとんどぼくが独りで活用している #29channel という Channel の様子です。ぼくは「大和田」という印鑑の Emoji がつけられた発言は #29channel に流れてくるように設定しています。

誰かが @june29 関連の話題に「大和田」の Emoji Reaction をつけるだけでぼくのもとに情報が届くので便利です。また、ぼくの勤務先の地域には「大和田」と呼ばれるエリアがあり、それ関連の情報もちょいちょい流れてきておもしろいのでした。

@kenchan も似たような設定をしていて、同じく印鑑の「高橋」の Emoji の Reaction がついた発言は @kenchan が個人でワイワイしている Channel に飛んでいきます。

ぼくのまわりでの Reacji Channeler の活用事例

ペパボの Slack には「エンジニアみんなが集まる場所」があって、多くのエンジニアや、あるいはエンジニアの生態に興味がある他の職種の人も自由に出入りする Channel になっています。そこの Channel にシェアするための Emoji が設定してあるので「これはエンジニアみんなと共有したいな」となったものはバシバシと飛ばされています。

Reacji Channeler を導入していなかったとしても「これは共有したい」と思った発言って Copy link して然るべき Channel にペーストされていくじゃないですか。それをもっと気軽に、カジュアルにやれるようにしてくれる感じです。

他にも「社が提供するサービスごとの Emoji が、そのサービスの Channel に共有される」設定があったり、この Emoji をつけたら広報のみなさんの Channel に共有される、といった使われ方をしています。おもしろ枠でいうと :curry: がついたら #curry にシェアされる、というのもあります。

より高度な使い方

Slack においては、発言するにはその Channel に Join する必要があります。しかし Reacji Channeler では飛ばし先の Channel に入らなくても利用できるため、一方的に情報を投げ付けることができます。この特徴を利用して、ぼくは @kenchan に一方的に投げ付けたい社内の情報をよく飛ばしています。ぼくの #29channel にも各方面からいろんな情報が投げ込まれています。

Emoji Reaction で発言を飛ばしたあと、Emoji Reaction を削除してもシェアされた発言は残ります。この挙動を利用すると完全犯罪が成立してしまってやばいです。たまに誰かが「大和田」の Emoji で #29channel に情報を飛ばしたあと、その「大和田」の Reaction を取り消ししているんですよね。誰が飛ばしてきたかわからなくなります。ぼくらはこの行為を俗に「投石」と呼んでいて、Reacji Channeler は投石器にもなり得るので注意が必要です。

まとめ

ぼくは大好きだけれど、観測範囲ではぜんぜん言及されていないようなので Reacji Channeler の紹介文を書いてみました。身近なところでの活用事例もあわせて載せました。後半は犯罪を助長するような内容にもなってしまいましたが、みなさまにおかれましては用法・用量をよく守り健全な Reacji Channeler ライフを送っていただきたいと思います。

興味を持った人は、ぜひあなたの Slack Workspace に導入してみてください!おもしろ便利な使い方が発見されたら @june29 にも教えてください。

読者の声

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有限の貴重な資源であるモチベーションを無駄にしない「Yes, And」のマインド

2018-08-03

「Yes, And」と呼ばれる考え方があります。コミュニケーションにおける「カタ」と言ってもいいかもしれません。デザイン思考を実践していく上で欠かせないとされるマインドです。ためしに「デザイン思考 yes and」あたりでウェブ検索してみると、たくさんの解説記事が見つかるでしょう。その中でも読みやすかったものをひとつ挙げておきます。

日本になくて、シリコンバレーにある「Yes And」のマインド

日本には存在しない、ってこともないと思いますけど。

先日、2018 年 4 月入社の後輩社員たちがふりかえりをする場があって、ぼくも場をいい感じにする担当として同席させてもらったんですね。彼ら彼女らのお話の中に「最初は、同期のみんなとチームを組んでなにかに取り組むのがすごく大変だったけれど、ひとりひとりが “Yes, And” の考えを体現できるようになってから一気にチームがいい感じになって、チームでの作業がすごく楽になった」という旨のものがありました。研修の前半で Yes, And の重要性を説いた人はいいお仕事をしているな〜と思いました。

「Yes, And」じゃないコミュニケーションはなにかというと「No, But」や「Yes, But」が挙げられます。それぞれ例を見てみましょうか。

  • [発端] ◯◯っていう企画をやってみるとどうかな?
    • [No, But 型] いや、それはお金もかかるしあんまりいい企画じゃないと思うよ
    • [Yes, But 型] おもしろそうだね!でも、予算の確保がむつかしいから実現は無理でしょうね
    • [Yes, And 型] おもしろそうだね!それを予算をあまりかけずに実現できる方法が見つかったら最高だね

うまい例を考えるのはむつかしいですね…!読んでくれている人に伝わるといいなあ。

「No, But」はいわゆる「否定から入る」ってやつで、頭ごなしに案を退けるカタです。ぼくが見てきた現場では「No, But」型を繰り出す人はほとんどいなかったように思いますね。わかりやすく角が立ちますし、意識的にも無意識的にでも避けている人が多い印象です。

「Yes, But」は「No, But」のときのような殺伐とした雰囲気を避けるためにいったん肯定している姿勢を見せて、そのあとにしっかり否定するカタです。これはけっこういろんな場所で目にしたり耳にしたりするパターンです。

「Yes, And」は否定を使うことなく相手にボールを返すカタですね。ある観点においては、こういうやり方がいいぞ〜とオススメされているカタになります。会話を止めずに命題を次々に変えて発想を連鎖させていく感じになります。

特にプロダクトに関するアイディア出しの場や、そういった明示的な場ではなくても日頃の何気ない雑談の中で発言においても、ひとりひとりがどのカタを選ぶかによってチームのエネルギーの総量はけっこう変わってくることでしょう。

お仕事や趣味で創造性を発揮したいシーンにて、モチベーションというのは有限の貴重な資源であると思い知らされます。乗り物でいえば燃料ですね。遠くに行くには燃料が必要で、燃料は無限に存在するわけではないので大事に使わなければなりません。また、より少ない燃料でたくさん移動するために燃費というものを気にします。

モチベーションを消耗させるのは簡単です。ネガティブな言葉を投げ付ければよいだけです。あなたがチームでなにかに取り組んでいるとき、あなたの言動でチームのモチベーションを消耗させてしまうとしたら、それは取り組みの価値を下げる行為と言って差し支えないでしょう。みんながみんなネガティブな言葉を撒き散らしていたら、チーム全員でチームの価値を下げるということです。全員で損を勝ち取っちゃいますね。

似たような話で、こういうツイートも見かけました。

「機嫌」と言ってしまうと日によって変化してしまう性質のような気がしますが、機嫌がどうであれ「Yes, And」のリアクションを保てるよう、スキルとして体得していきたいと思います。「No, But」「Yes, But」のリアクションを出すたびに見えないコストが発生している…と考えてみると、営利企業に身を置いている身としてはピリッとくるものがあります。

ぼくはチーム全員で得をしたいので、後輩社員たちから見て恥ずかしくない先輩社員であるためにも、あらためて「Yes, And」を実践していきたいと心から思いました。他の同僚たちともいっしょに実践していきたいと思い、こうしてパブリックな場所に書いてお気持ちを表明しています。正直、ぼくはまだまだ高いレベルで実践できているとは言い難いのが現状です。ぼくがみなさんのモチベーションをドブに捨てるような言動を繰り出していたら「Yes, And」と声をかけてください。

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