#june29jp

ソフトウェアエンジニアがヒゲ脱毛を体験してみた

2019-03-20

先日、湘南美容クリニックさんに行って、カウンセリングを受けて、全 6 回のレーザー脱毛を契約し、そのまま 1 回目の施術を受けてきました。ぼくはまったくの素人だったので今回はじめて知ったのですが、レーザーを一度打ったらそれで終わりってわけじゃないんですね。あと 5 回くらいは通うことになります。まずは現時点でのレポートです。

Before/After の画像はひとつも載せません。そういうのを見たい人は YouTuber がアップしている動画とかを観るとよさそうです!

どうしてヒゲ脱毛しようと思ったか

結婚して奥さんといっしょに暮らすようになって、独身時代と比べると、生活の質を上げたいというモチベーションが強くなりました。お金をじゃぶじゃぶ使って生活水準を上げたい的なお話ではなく、とにかく無理をせずにストレスなく毎日を楽しんでいきたいという気持ちです。

繰り返し発生する家事などの雑事はとにかくコストを下げていきたくて、そんなことを考えながら少しずつ少しずつ家庭をベターにしてきたつもりです。夫婦そろって、あんまり気張らずに生きていけるようになってきました。

「じゃあ、次はなにを楽にしようか、効率化しようか」と考えてみると、毎朝のヒゲ剃りがけっこう面倒だよな〜と自覚的になりました。そうですね、遅くとも 20 歳のときには「毎朝剃らないと目につく」くらいにはヒゲが生えてくる体になっていたので、かれこれ 15 年以上も、ヒゲを剃ることに自分の時間を費やしていることになります。もったいないですね。

まず、奥さんに話してみた

「ヒゲを永久脱毛しようと思う」

と話したぼくに対する奥さんの反応が「不可逆だけど、いいの?」だったので、数年に及ぶぼくとの会話ですっかり毒されていてかわいそうだなぁと思いました。あなたは「不可逆」とか言うような人じゃなかった。ちょっと笑ってしまった。その通り、ぼくは不可逆な操作を可能な限り回避するので、日頃から「不可逆な操作は慎重にやりたい」と言っています。よくわかっている奥さんだなあ。

奥さんに話す前からぼくも考えてはいて、たとえば 5 年後に「ヒゲを生やしたい」となったらどうするんだろう、って仮定してみたりしました。でも、この 15 年の間に「伸びてきたからなんとなく生やしている」という時期はあっても、積極的にヒゲをどうこうしようと思ったことはありませんでした。生えてこなかったら、特になにも気にせずに過ごすだけだと想像します。

施術の前日まで

「よーし、脱毛しよう」となったので、電話をかけて自宅から行きやすそうなクリニックを選んで予約を取りました。初回はカウンセリングと施術で 90 分くらいを要するだろう、ということを聞けたので、それくらいの時間を確保して臨むことにしました。

通話を終えた 10 秒後くらいには SMS が届いて、おおっ、と感じました。予約受付システムがしっかりしているのだな〜という印象を受けました。電話での応対が丁寧だったこともあり、この時点でかなり安心を感じていました。ありがたいことです。

ここに記載されている URL にアクセスして、事前に問診票に必要事項を記入できます。そうしておくと、当日に現地でやることが減って時間を節約できることになります。とてもよい仕組みだと思います。

施術当日 : 受付とカウンセリング

ちょっと緊張してドキドキしながらクリニックに向かいました。

着いてみると、とてもきれいなところでした。施設内は撮影禁止。ぼくは「受付番号 22 番」の紙を受け取り、この日は共有スペースではずっと「22 番」と呼ばれていました。プライバシーへの配慮だそうです。カウンセリングを受ける個室でのみ、名前で呼ばれました。「29」という数字に体が反応してしまういつもの癖はこの日も発症し「29 番さん」との呼び掛けに「はーい」とお返事しそうになるもグッとこらえ、お行儀よく過ごしていました。

カウンセリングを担当してくれた方に「おヒゲの脱毛をしようと思ったキッカケは?」と聞かれて回答しようとしたあたりで、どうやらこのクリニックには「美」を求めて来院するケースが多数派なのではないか、と感じるようになりました。全体的に清潔感があるし、そこにいる人々もシュッとしており、壁に貼ってあるポスターたちは美容整形の成果を雄弁に語ってくれています。なるほど、美容クリニックなんだからそりゃそうか。ちょっと考えればわかりそうなものですが、ぼくはあまりなにも考えずに突入してしまったため、クリニックに入ったあとで気がつくことになりました。やや控えめに「毎日を効率化したくて、それでヒゲを…」と回答しておきました。

施術当日 : 施術前の説明

Wi-Fi への接続情報と QR コードが印刷された紙を渡されて「この動画を見てください」と案内されました。なるほど。スマートフォンを持っている人であれば、これだけ渡しておけば施術に関する事前案内が済んでしまうわけですね。仕組みがしっかりしている。

動画はこちらです。YouTube にアップされているので誰でも見ることができます。便利。

スマートフォンを所持していない人はどうするんだろうな、とは思いました。貸し出し用のタブレットでも用意しているんですかね〜。

動画を見終わると、再びカウンセリング担当さんとのお話があります。動画で説明されたのとほとんど同じ内容が印刷されている紙の資料をいっしょに見ながら「こういった方は施術できませんが、大丈夫でしょうか?」「はい、大丈夫です」とやりとりを重ねていきます。このときぼくは「動画と口頭でのやりとりで、重複した情報を扱っているな、無駄では?」と思いました。背景として想像したのは、

  • 医療施術を行うわけだから、確実に確認を行うためにダブルチェックにしている
  • 約 9 分間の動画をちゃんと見ない人への対策として、対面でのチェックも組み込んでいる

ってあたりです。実際のところは、どうなのでしょうね。

施術当日 : 契約とお支払い

ヒゲ脱毛の施術がどういった内容なのか、全容がわかったところで、料金表を見ながら契約内容を詰めていきます。冒頭にも書いた通り、ぼくは全 6 回のコースを選びました。通勤定期券の「1 ヶ月より 3 ヶ月、3 ヶ月より 6 ヶ月の方がお得」とよく似た形式の価格テーブルで、全 3 回のコースを受けて「やっぱりもうちょっとやった方がいいな」と後追いで 3 回を追加するよりは、最初から 6 回のコースにしておくと支払い額は小さくなります。

ここで、保湿クリームや日焼け止め等の説明がありました。施術後は、施術箇所のケアがとても大事とのことで、クリニックがおすすめするケア用品をご紹介いただきました。しかし、ぼくはこれまで保湿クリームや日焼け止め等を一度も使用したことがなく、もちろん購入したこともなかったので、価格の相場がまったくわかりません。「今の自分にまともな判断はできないと思うので、保留にさせてください」と言ってオプションの購入は見送りました。

かくして、脱毛の施術のみの契約を交わしました。

施術当日 : いざ施術

ぼくが想像するレーザー脱毛のイメージは、完全にこの動画によって形成されています。これしか情報がない。

ちなみにぼくは「麻酔ナシ」での施術を選択し、やってみて我慢できないくらい痛かったらその時点で麻酔してもらおう、と話していました。男性のヒゲ脱毛における麻酔のアリ・ナシは、だいたい半々くらいだそうです。「だいたい半々くらいなんですけど、いかがいたしますか?」と問われたときは内心「決め手がないじゃん」と思いました。

ヒゲ脱毛、想像していたよりは痛かったです!静電気の強烈なやつを 5 分間くらいは口のまわりに浴び続けるって感じでしょうか。家庭の事情で生まれた時から強力な電気を浴びていたような人なら、まったく問題ないでしょう。

術後

施術から 2 日半ほどが経過した現在、特に変化を感じるようなことはありません!きのうも今日もふつうにヒゲを剃って暮らしています。1 週間か 2 週間くらい経ったら変化を感じるかしら。そのときを楽しみに待ちたいと思います。

すべての施術が終わったら、またレポートを書きたいな〜と思っています。ヒゲを剃らなくてよくなったらぼくの生活がどんなふうに変わるか、早く体験してみたいです。

ヒゲ脱毛に興味を持った人へ

湘南美容クリニックには 紹介制度もある (動画による説明) みたいなので、興味があったら適当に声をかけてください!

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アンチボッチと呼ばれる取り組みについて

2019-03-18

最近、TokyoGirls.rb Meetup vol.1 というイベントが開催されました。このイベントのことは @jnchito さんの発信する情報によって知っていました。勤務先であるペパボはスポンサーとして関わらせてもらいましたし、その関係で弊社からイベントに参加したガールズもいます。

イベントについての詳細は下記のリンクたちから。

そこで見かけたアンチボッチ

開催後のイベントレポートをいくつか見ていると、そこに「アンチボッチ」という文字列が登場することに気付きました。

アンチボッチというのは、ぼくが RubyKaigi2011 の実行委員をやっていたときに、ランチタイムや懇親会における「望まぬ孤立」を減らすための一連の取り組みに運営チームでつけたラベルです。ためしにツイートを検索してみると、最古の言及ツイートは RubyKaigi2011 の運営委員長の @kakutani さんによるこちらでした。

大井町には当時のぼくの勤務先があって、RubyKaigi2011 の実行委員で集まる場所としてもちょいちょい活用していました。軽く調べてみた限りにおいては、アンチボッチという文字列を最初に使い始めたのはぼくら、ということで間違いなさそうです。

これより前から言っている人がいたよ、その記録はこれだよ、ってのがあればぜひ教えてください!

アンチボッチへの想い

RubyKaigiという体験を経て - #june29jp

ぼくが 2011 年に書いた上記のエントリの「コミュニケーションデザインの成果」のセクションに、当時どういった想いでアンチボッチ系の取り組みをやっていたのか、そこそこ詳細に書き記してあります。記録は便利。当時の自分がちゃんと文章にしていてえらいと思いました。

2019 年の自分が担当すると「アンチボッチ」というラベルにはならないような気はしますが、そのコンセプトというか、問題意識というか、そこにかける想いについては今の自分から見ても共感できる内容です。あのときの自分はきっと「アンチボッチランチ」の語感がよかったから採用したんだろうなあ。今となっては、実際にどうだったかはわかりませんね。

オフラインイベントにおける他者との交流

最近の技術系カンファレンスだと、登壇資料が公開されることは珍しくありません。登壇の様子を記録した動画が YouTube にアップされることも多いです。こういった現況において、現地参加する人は多かれ少なかれ「その場でしか得られないもの」を求めているのではないでしょうか。その主たるものが「他者との交流」にあると言えるでしょう。

アンチボッチは、当時の記事の中でも明確に「望まぬ」と添えています。

「アンチボッチランチ」とは、誰かと一緒にランチに行きたい気持ちはあるけれど、相手が見つかっていない、という人たちのグループづくりをお手伝いして、望まぬ「ボッチ飯」の撲滅を目指す企画です。

ボッチ、つまりひとりで過ごす時間そのものを否定しているわけではありません。イベントに参加して、心の中に「会期中にあの人とお話してみたいな…」「ライブラリの作者さんに一言でもお礼を言いたいな…」「気の合う人と懇親できたらいいな…」のような声がほんの少しでもあるのなら、それを後押しできたらいいな〜と思って設計していました。

アンチボッチは時空をこえて

そんなアンチボッチ的な取り組みが、2019 年にもぼくのぜんぜん知らないところで企画されていたのだなぁと気付き、うれしかったのでこうして筆をとっています。

これからも技術系カンファレンスや他の分野のオフラインイベントはたくさん開催されていくことと思いますが、さまざまな場で、参加者の期待が叶いやすくなるような工夫があるといいなぁと思います。ぼくはこんな人間なので、もし会場で見かけるようなことがあれば気軽に話しかけてください!

レッツ・アンチボッチ!

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書籍「データの見えざる手」を読みました

2019-02-17

2014 年 7 月 17 日に単行本として出版された青い表紙の書籍が、2018 年 4 月には文庫版としてピンクの表紙であらためて発売されていたそうで。ぼくは新しいピンクの方を読みました。2018 年に 2 月に書かれた「著者による解説」が追加されているお得なバージョンだったりもします。

文庫 データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則

読書メモ

ここからしばらく自分用のメモを書いていきます。てっとり早く済ませたい人は「まとめ」までスクロールするのがおすすめです。

これまで人類は、科学により宇宙の起源から物質の成り立ちまでを理解してきた。その進歩のきっかけは多くの場合、新たな計測データの取得であった。

序盤からテンションの上がるフレーズがあってうれしい。計測データの取得!

これらの方程式が自然法則の基本であり、それらがすべて保存則、とくに「エネルギーの保存則」から派生する式だとすれば、「エネルギー」の概念こそが、自然現象の科学的な理解の中心にあることは疑いない。

自然法則のお話、からの。

ここで対象に人間を入れると話がややこしくなる。人間には「意思」があり「思い」があり、「情」があり、それが行動に影響を与えているからである。とはいえ自然の変化はエネルギー配分の変化で起きているのに、そのなかで人間だけがそれと無縁の特別な存在でいられる何らかの事情があるのだろうか。

人間の活動だってその範疇のことなんじゃない?という仮説の提示。

このU分布がおもしろいのは、1日の身体運動の分布は動きの総数(あるいは時間あたりの動きの1日を通した平均数)というたった1個の変数でおおよそ決まってしまうことだ。動きの総数を決めると、U分布によって、どの帯域の行動にどれだけ時間が使えるかが決まる。これを我々は「活動予算」と呼んでいる。

なるほど。

活動温度が高めの「熱い人」は、平均して動きが多い。活動温度が低めの「冷たい人」は、平均して動きが少ない。一見、活動温度が高い人の方が活動的で、より多くの仕事ができそうである。しかし、そう単純ではない。

ふむふむ。

活動温度の高い人が、原稿執筆のような比較的低い帯域の活動(動きの少ない活動)をする必要があるとしよう。実は活動温度の高い人は、高い帯域の活動(動きの活発な活動)にいやでも時間を使わざるを得ない。したがって、原稿執筆のような低い帯域の仕事にあまり時間を使うことができないのだ。つまりこのような人は、長時間机に向かって仕事をすることがむずかしくなる。

人間の活動も、ある法則の中にあって、それに抗って行動するのはむずかしいらしい。少なくとも計測データはそれを示している、と。

テクノロジーは、社会を変えてきた。それは経済活動を高め、生活水準を豊かにしてきた。ドラッカーによれば、 20 世紀には、肉体労働の生産性が 50 倍向上したとされる。これには、テクノロジーが大きく寄与している。

そうだね。

とはいえ、テクノロジーは我々を幸せにしているだろうか。これはまったく違う問題だ。

これは、サピエンス全史の下巻の終盤にも同様のお話がありましたね。

まず、「幸せ」は、生まれ持った遺伝的性質に影響されることがわかっている。これは、地道な双子の研究から見出されたことだ。

そうなのか、知らなかったなあ。

このような地道な研究の結果、幸せは、およそ半分は遺伝的に決まっていることが明らかになった。うまれつき幸せになりやすい人と、なりにくい人がいるということである。

それでいうと、ぼくは幸せになりやすい遺伝的性質を持っているんじゃないかなあ、という気はする。

遺伝的に影響を受けない残り半分は、後天的な影響である。半分は、努力や環境変化で変えられる。これは、変えられる部分が意外に大きいとも捉えられるのではないだろうか。

そうだねぇ。「遺伝的性質が半分を占める」と言われると「多い!」という印象にもなるけれど、もう半分は後天的に決まるのだとしたら、そこに注力するのがいいもんね。

この環境要因に含まれるものは広い。人間関係(職場、家庭、恋人他)、お金(現金だけでなく家や持ち物などの幅広い資産を含む広義のもの)、健康(病気の有無、障害の有無など)がすべて含まれる。驚くべきことに、これら環境要因をすべて合わせても、幸せに対する影響は、全体の 10% にすぎないのだ。

なんとなーく「幸せ」に直結していそうと捉えられがちなこれらは、全体の 10% にしかならないとのこと。けっこう意外!

それでは、残りの 40% は何だろう。それは、日々の行動のちょっとした習慣や行動の選択の仕方によるというのだ。特に、自分から積極的に行動を起こしたかどうかが重要なのだ。自ら意図を持って何かを行うことで、人は幸福感を得る。

ですってよ。ぼく個人の体験とは一致するところがあるので納得しやすかったけれど、他のみなさんはどう感じるでしょうか…?もしこれが本当だとすると、幸せになりたかったら自分からどんどん動くとよい、ってことになるね。

さらに重要な発見は、ハピネスと身体活動の総量との関係が強い相関を示しているということ。つまり、人の内面深くにあると思われていたハピネスが、実は、身体的な活動量という外部に見える量として計測されたことになる。したがって、ハピネスは加速度センサによって測れるのである。

な、なんだってー!?

もう一度いおう。幸せは、加速度センサで測れる。

もう一度いっちゃったよ。これはなかなかおもしろい主張ですね。ぼくも加速度センサで自分のハピネスを測りたいな〜!

仕事などの条件が違う人どうしを比べて、動きの量の大小によって、どちらの人が幸せかを論じるのは、意味はない。しかし、より幸せになった人は、より動くようになるのは事実だ。これは幸せが、積極的な行動と強く結びついていることとも整合する。

なるほど。絶対的なスカラー値が出るわけではない、と。

実は、受注は、意外なことと相関していた。それは、休憩所での会話の「活発度」である。休憩時間における会話のとき身体運動が活発な日は受注率が高く、活発でない日は受注率が低いのである。

これはコールセンターで働くみなさんにセンサを身につけてもらって実験したときのお話。休憩所で活発な会話があると業績がよくなるというお話。これおもしろいな〜。

これを認めると、ハピネスとは実は集団現象だということになる。ハピネスは、個人のなかに閉じて生じると捉えるより、むしろ、集団において人と人との間の相互作用のなかに起こる現象と捉えるべきなのだ。そして、集団にハピネスが起きれば、企業の業績・生産性が高まる。

これもおもしろい命題なので、ぼくもよく考えたい。

資本主義の黎明期、 18 世紀スコットランドの道徳哲学の教授であるアダム・スミスは、自由な経済の特徴を「見えざる手」という言葉で表現した。これは、個人が自分の経済的利益を追求することで、富が社会に自律的に分配され、社会全体が豊かになるという考え方だ。

書名からして、きっとこのお話が登場するだろうな〜とは思っていた。

このためには、我々が組織運営の上で当たり前だと思っていたことの見なおしも必要だ。たとえば、我々は組織の上下での連携を行う常識として「ホウレンソウ(報告、連絡、相談)」が重要だと教わった。しかし、今後はこれに加え、「マツタケ(巻き込み、つながり、助け合い)」が必要になるという指摘があった。目指すのは、個と全体とを統合して共通の視点が持てる組織であろうか。

最近も 職場の「ホウレンソウ」は時代遅れ、会社は「ザッソウ」で強くなる(倉貫 義人) という記事がありましたね。植物由来の略語にしなきゃいけない縛りがある。

マツタケもザッソウもけっこう「そうかもな」と思うところはあって、これからの若い世代に「社会人の基本として、まずホウレンソウが〜」とか言うと「古いな〜」って思われるようになっていくのかもしれない。あるいは、すでにそうなっている?

科学技術の発展や進化は、植物の成長に学ぶところが大きい。植物は、遺伝子という設計思想を維持しつつ、一方で、環境と相互作用しながら即興的に具体構造を決めていく。その出発点になるのが「 種」である。「学習する組織」の泰斗ピーター・センゲ氏はいう。「 種 は木が育つのに必要な資源をもっていない。資源は木が育つ場所の周囲──環境にある。だが、種は決定的なものを提供する。木が形成され始める『場』である。水や栄養素を取り入れながら、種は成長を生み出すプロセスを組織化する。」

この話おもしろいな〜。プロダクトもプロジェクトもそうだもんな、周囲を巻き込むことで成長できる。

これを解決したのが、名札型のウエアラブルセンサであり、このための最強のツールと思っている。名札型のセンサには、人との面会、場所、環境の音量、集中度、体の姿勢、温度、照度などの記録をリアルタイムに残す。私はこの詳細な記録をヒントに、毎日翌朝に、昨日、いつどんなことに時間を使ったか記載している。週末には、過去2週間分を俯瞰し、見直すことで、自分の時間の使い方を再検討して組み替えることができる。

本文中に何度も登場する「名札型のウエアラブルセンサ」ってやつ、ぼくも使ってみたいな。あるいはこれと同等の情報を収集できるセンシングデバイスがあれば身につけたい。

AIが置き換えるのは、人の労働ではない。従来我々が頼ってきた「ルール指向」という考え方やそれを支える仕組みを、「アウトカム指向」に置き換えるのである。そのような置き換えが起こるのは、我々が求めるものや需要が、一律の標準化されたモノやサービスから、個別性や多様性が高いものに変わったからである。ルール指向からアウトカム指向への変革は、労働の変化も起こすであろう。しかし、それはAIが起こしたのではない。我々の求めることや需要の変化がもたらしたものである。

この整理にはけっこう納得した。

まとめ

著者の矢野さんはお仕事で論文を書くような立場の人で、そのおかげでこの書籍の文章もぼくにとっては読みやすかったです。ふわっとした物言いをしない、というか、言葉の定義も明確だし、事実と主張はそれぞれそうとわかるように書いてくれるし、学生時代に工学や科学を専攻していた自分としては親しみを持てる書き味でした。

2014 年に世に出たものということで、2019 年に手に取ったぼくはその差分については意識して読むことになりました。たとえば本文の中で AI に対する言及があるけれど、AlphaGo が互先で囲碁のプロに初めて勝ったのは 2015 年のことだから「AlphaGo 以前に書かれた文章だな」と思ったりしながら読みました。しかしそれもある程度は杞憂というか、2018 年に加筆された「著者による解説」において

今回、文庫化にあたり、そのような陳腐化への危惧を持って、本書を読み直してみた。幸いなことに『データの見えざる手』で論じたことは、今もまったく陳腐化していないように見えて安心した。

と明言されていました。少なくとも 2018 年 2 月において、本書に綴られた著者の主張に揺るぎはないと確認できたのはよかったです。

日々を生きていて、経験的に「こうする方がいい」と思っているような事柄について、こうして科学的な裏付けがなされていく様子を観測できるのは痛快です。Google のリサーチチームがいう「心理的安全性」のように、本書においてもそのような主張が存分にあり、たくさんの刺激を受けながら楽しく読みました。

一方で、それらの知見を自分の日々に持ち帰ろうとしたときに、以下の 2 つの「どうしたものか」を感じました。

  • ぼくもそのウエラブルセンサの恩恵を受けたいのだけれど、どうしたらいい?
  • オフラインの対面でのやりとりではなく、GitHub や Slack 等を通じたオンラインのコミュニーケーションが密な場合は、なにをどのように計測したらいい?

前者については、ウェブで軽く調べてみると 価格:Hitachi AI Technology/組織活性化支援サービス:ビッグデータ×AI(人工知能):日立 が見つかりました。最低価格が 500 万円からということで、これは組織向けのソリューションであることが伺えます。しかしぼくは、あとがきで矢野さんが紹介されていたような「センサ技術で自分自身の毎日をよりよいものにしていく」という観点に強い興味があり、組織よりも個人向けにこそ活かしてほしい技術であると期待を持ちました。もちろん、組織全体で導入しないと効果が半減するとか、そういったことは想像がつきますが、個人ユースでも活用できるデータが充分にあるようにお見受けします。個人向けに提供してほしいという要望をここに明記しておきます。

後者については、ぼくの宿題と捉えました。オンラインのコミュニケーションであっても、いつ誰とどんなやりとりをしたか、毎日だいたい何人くらいとやりとりしているか、などなどのデータは取得できますもんね。もし組織の Slack のデータを分析することで「活躍する人物の行動の特徴」を抽出できるとしたら、すぐにでも活かせる展開がありそうです。

データが好きな人、組織を活性化させたい人、テクノロジと人類の未来について考えたい人、あたりは楽しく読めると思います。おすすめの一冊です。

文庫 データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則

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書籍「イスラエルがすごい」を読みました

2019-01-30

イスラエルがすごい―マネーを呼ぶイノベーション大国― - Amazon.co.jp

サイバーセキュリティについて調べていると、ちょくちょくイスラエルの名前を見かけます。「イスラエルって、なんかすごいんだなあ」くらいに捉えていたのですが、どれくらいすごいんだろう、とか、なんでそんなすごいんだろう、とか、もっと具体的に知りたくなったので読んでみました。

ぼくが「イスラエルについて知りたい!勉強するぞ!」と明確に思ったのは 2018 年 12 月で、とりあえず Amazon.co.jp で「イスラエル」と検索したらこちらの書籍が出てきて、発売が 2018 年 11 月だと知って「最新情報じゃん」と思って渡りに船を感じたのでした。

以下、自分用の読書メモです。

どれくらいすごいの?

21 世紀に最も重要な資源は、石油や天然ガスではなく、「知識」と「独創性」だ。多くの日本人は感じていないかもしれないが、世界中で知的資源の争奪戦が始まっている。今年建国から 70 周年を迎えたイスラエルは、知恵を武器として成長する国の代表選手である。

代表選手とまで言われちゃうくらいなんですねぇ。

サイバー・セキュリティは、イスラエルが最も得意とする分野の一つだ。企業をコンピューター・ウイルスなどから守る防壁、つまり「ファイアーウォール」の技術がイスラエルで生まれたことをご存じだろうか。

ファイアーウォールの件、知りませんでした。やっぱりサイバーセキュリティは得意なんですね。これはイメージ通りです。

たとえば、2014年にテルアビブで創業したイリュースィブ・ネットワークスは、チーム8が生んだ4社のベンチャー企業の1つ。同社のテクノロジーがユニークな点は、ハッカーやマルウェアが企業などのITシステムに侵入した場合、直ちにブロックするのではなく、本物そっくりの架空のIT空間に誘い込むことだ。侵入者は、本物のITシステムから「隔離」されたことを気づかずにデータを盗もうとする。イリュースィブ・ネットワークスのエンジニアたちは、その間に侵入者をリアルタイムで分析し、マルウェアなどを送り込んだ人物や組織を、逆探知によって特定しようと試みるのだ。サイバー・セキュリティの専門家の間では、侵入者の「身元」を割り出すために、しばらく泳がせるのが常識となっているので、イリュースィブ・ネットワークスの技術は重宝されているはずだ。

これは便利。すごい。

イスラエル国防軍との緊密な連携を最大限に活用して、ベンチャー企業を世に送り出すチーム8のビジネスモデルは、世界中の大手企業から注目されている。チーム8への投資家の中には、グーグルの元会長エリック・シュミットのベンチャー投資ファンドであるイノベーション・エンデバーズ、米国のベンチャー投資企業ベセマー・ベンチャー・パートナーズ、マイクロソフト、米国の通信企業AT&T、米国のIT企業シスコ、シンガポールの投資会社テマセク、日本の三井物産など、錚々たるファンドや企業が名前を連ねている。

わかりやすく凄みを感じますな。

なんでそんなすごいの?

イスラエルのハイテク企業の創設者の中には、イスラエル国防軍(IDF)で兵役に就いている時に学んだ技能を、民間経済のために利用している人が極めて多い。軍隊がベンチャー起業家の「養成校」になっているというのは、日本やドイツの産業界には全く見られない特性だ。

なるほど、兵役〜!だとしたら定常的に人が育つ仕組みになり得るなあ。

8200部隊のユニークな点は、数々の起業家を生むインキュベーター(孵化器)となっていることだ。米誌「フォーブス」は、8200部隊の出身者が創業したベンチャー企業が約1000社にのぼると推定している。

イスラエル国軍の電子諜報を担当する「8200 部隊」かっこいい。

周囲に敵国が多いイスラエルは、国民皆兵の国である。原則として 18 歳以上の全ての男女に兵役義務がある。男性は3年間、女性は2年間にわたり兵役に就かなくてはならない。

かなしい事情ではあるけれど、納得感はありますな。

他のイスラエルの起業家の間にも、8200部隊の卒業生が多い。ウェブサイト制作用プラットフォームに関するベンチャー企業ウィックスを2006年に創設したアヴィシャイ・アブラハミも、元8200部隊員。敵国のITシステムに侵入して機微なデータを入手する任務を担っていた。

Wix.com もイスラエル発だったのか〜。

軍隊という特殊な環境で知り合い、長期間にわたって苦楽を共にした戦友たちの間には、独特の友情が生まれる。この結びつきは、除隊して社会に戻ってからも維持される。彼らは、お互いの性格や得意、不得意も熟知しているので、起業の際に不可欠な、緊密なチームワークにも長けている。新たな人材やノウハウが必要な時には、軍で築き上げたネットワークが役に立つ。サイバー攻撃に関する技術的な知識だけではなく、人脈などのソフト・ファクターも、8200部隊の卒業生たちが民間経済での起業に成功する理由の1つだ。

「人が育つ」ってだけじゃなくて、「人脈が育つ」という面もあるわけですね。それは強いだろうなあ、と想像しました。

8200部隊に配属された 18 ~ 20 歳前後の若い兵士たちは、上官から極めて難しい課題を与えられる。たとえば、ある若い兵士は「X国のサーバーに入り込んで、データを取って来い」という命令を与えられた。興味深いのは、この時に兵士たちが「自分の頭で考え、知恵を絞る」という姿勢を徹底的に叩き込まれることだ。

よさそう。

こうした姿勢は、英語で「アウト・オブ・ボックス」つまり「箱の外」の発想法と呼ばれる。教授によると、8200部隊に入る上で最も重要な条件は、この発想ができるかどうかである。シュフタン氏は、「8200部隊に入れる若者は、ITの天才だけではない。軍は、若者が従来の常識にとらわれない発想ができるかどうかを、最も重視する。つまり、通常人には見えないような、現象や相関関係を見ることができる人々だ。この要件を満たさないと、8200部隊には入れない」と語る。

発想力みたいな要素を重視するんですね。これもおもしろいなあ。

たとえば戦闘機のパイロットが、ある目標を攻撃するよう命令されたとする。パイロットが目標に近づいて、「この攻撃を実施するのは間違っている」という結論に達した場合、攻撃命令を実行する必要はない。そのかわり、基地に帰投してから、なぜ爆撃しなかったかをきちんと説明しなくてはならない。つまり兵士たちは「上官から与えられた命令だから」という理由で盲目的に服従してはならず、常に自分の頭で判断することを求められる。なぜかというと、上官も誤った判断をしている可能性があるからだ。「すべてのことを疑い、質問せよ」というイスラエル人の大原則がここに生きている。

上意下達の雰囲気が強い軍隊においてもコレなんだから、真に国全体で共有されている大原則という感じなのだろうなあ。文化がそうなんですね。ぼくには魅力的に写りました。

権威を恐れないイスラエル人たちの行動哲学は、子供の時に家庭で育まれる。たとえばシュフタン教授は2人の娘に対し、「君たちは私が父親だからといって、私を尊敬する必要はない。私の振る舞いを見て、『パパは尊敬するに値する人物だ』と思えれば尊敬すればよい」と教えた。そして「常識を鵜吞みにしてはいけない。あらゆることについて疑問を抱き、質問をしなさい。失敗を恐れてはならない。失敗することは学ぶことであり、むしろ喜ぶべきことだ。ただし同じ失敗を犯してはならない。犯すとしたら、違う失敗を犯すべきだ」と娘たちに説いた。

めちゃいいな。ぼくも後輩たちに「尊敬するに値する人物だと思えば尊敬すればよい」というスタンスで接していきたい。

ところで移民国家である米国とイスラエルが、世界有数の起業大国であることは、偶然ではない。移民は、全く新しい環境でゼロから存在基盤を築き上げるので、自分の能力を信じるしかない。常に前向きに考え、楽観的でなくては、住み慣れた環境を捨てて新しい生活にチャレンジすることはできない。このため、移民国家イスラエルには、元々チャレンジ精神が旺盛な人々が多い。

移民国家、なるほどねぇ。筋が通った主張には見えるけれど、それを裏付けるデータとかあるのかしら。

私は、約2000年にわたり歴史の荒波にもまれた経験に基づく楽観主義と不屈の精神、型破りの発想を促す教育法、横柄なまでに権威を恐れない態度、移民国家のダイナミズム、そして失敗を恥と考えずに繰り返しチャレンジする精神も、この小国が世界有数のイノベーション大国になった重要な理由だと考えている。

著者はこう考えている、ってことですね。それならわかります。

その他のメモ

  • ヨーロッパでいうとドイツとの関係が深い
  • 最近は中国もすごい勢いでイスラエル企業に投資しているし、イスラエルは中国の巨大な市場に乗り出そうとしている
  • 日本は、アメリカやドイツや中国と比べると、イスラエルへの進出が遅れている

このへんは、本書を手に取ったときのぼくが直接的に「知りたい」と思っていたトピックではなかったけれど、戦争や政治の話も含めてあれこれと網羅的に概要を知れたのはお得だったな〜と思います。

イスラエルがすごい―マネーを呼ぶイノベーション大国― - Amazon.co.jp

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書籍「ファクトフルネス」を読みました

2019-01-22

年明け早々に話題になっているのを見かけ、ちょっと気になっていました。興味のある人は、Amazon の書籍ページなどの書籍紹介にも載っている簡単なクイズに挑戦してみるといいんじゃないでしょうか。ぼくは、このクイズに挑んでまんまと「おお〜」と思わされてしまったのと、目次を見て第 1 章のタイトルが「分断本能」だということがわかった時点で「読もう」と思って買いました。

FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

読んでよかったな〜と思います。おもしろかった。2019 年 1 月 8 日に購入して、19 日くらいに読み終えたくらいの読書ペースでした。

ふと思い出した、ぼくにとってのファクトフルネスとの出会い

書籍を半分くらいまで読み進めたときに、ふと唐突に思い出したのが、大学生の頃にそれっぽいエピソードがあったよな〜ということでした。もう 10 年以上も前のことで明確な記録も残っていないのですが、ぼくは大学生のときに下記の記事を読んで「事実確認はめっちゃ大事だな」と思ったはずなのです。

なぜ人々は「少年による凶悪犯罪が増えている」という間違った情報を鵜呑みにしているのか? - Munchener Brucke

もしかしたらこの記事じゃなくて似ている別の記事かもしれないけれど、なんとなくグラフに見覚えもあるし、たぶんコレ。それで、ある日、同級生とふたりでランチしているときに同級生が世間話としてなにげなく言った「最近は物騒な事件も増えているしね〜」的な発言に「それ、本当に増えているの?」みたいな反応をして、微妙な空気になったような覚えがあるのです。

ザ・ファクトフルネスって感じのエピソードですね。

読書メモ

何も知らないというより、みんなが同じ勘違いをしているといったほうが近いかもしれない。世界について本当に何も知らなければ、クイズの正解率は、当てずっぽうに答えた場合と近くなるはず。しかし実際の正解率は、それよりずっと低い。  仮に、このクイズを動物園のチンパンジーに出したとしよう。まず、A・B・Cのいずれかが書かれた大量のバナナを用意し、囲いの中に放り込む。わたしは囲いの外からクイズの問題文を大声で読み上げる。チンパンジーが最初に選んだバナナの文字が答えというわけだ。  もちろん実際にはやらないが、想像してみてほしい。チンパンジーの正解率は 33%に近くなる。つまり 12 問中、だいたい4問正解する。先ほど書いた通り、人間の平均点は 12 問中2問正解だった。チンパンジーは適当にバナナを拾うだけで、高学歴の人たちに勝てる。

書籍の中でずっと活躍してくれるチンパンジーたち。チンパンジーのおかげで読み口がコミカルになっていて雰囲気がよい。

ここに書かれている通り、ぼくたちは先入観や偏見や古い認識のせいで「何も知らない」よりも悪い状態にあるのだ、ということを繰り返し突き付けられるところから読書は始まっていく。「私、今のままじゃマズそう」と思わされて刺激的ですね。

自分の殻に閉じこもるよりも、正しくありたいと思う人へ。世界の見方を変える準備ができた人へ。感情的な考え方をやめ、論理的な考え方を身につけたいと思う人へ。謙虚で好奇心旺盛な人へ。驚きを求めている人へ。ぜひとも、ページをめくってみてほしい。

口車に乗せられてページをどんどんめくっていくことになりました。

そして現在、「子供から大人になる人の数」は、再び一定になった。しかし、昔とは事情がまったく違う。親は子供を平均2人つくり、2人とも大人になることができる。すばらしいことだ。人類史上初めて、人は自然と調和しながら生きられるようになった。

ここも認識に対するカウンターパンチっぽくておもしろかったです。自然との調和に関するひとつの味方。たしか「サピエンス全史」には、人間は自然をひたすら破壊しながら今日まできていて、調和して暮らしていた時期なんかない、っぽいことが書いてあった気がする。

いまでもアジアを旅すると、祖父のグスタフのような頑固オヤジに出会う。たとえば、韓国や日本では妻が夫の両親を世話するのがあたりまえだし、子供の世話も1から 10 まで母親がするものとされている。そんな習慣を「アジア男児の流儀」だと言って、堂々と自慢する男性もたくさんいる。

書籍を頭からお尻まで読んだ中で、いちばん「ファクトーーー!!!」となったのがこの箇所でした。少なくとも 2019 年のぼくはこれを「ファクトだ」と言い張るのは難しいな、という感触です。ハンス・ロスリングさんには、アジアもますます変わってきているよ、と伝えていきたいところです。

まとめ

ファクトフルネスを題に掲げている書籍だけあって、ファクト (事実) に対する言及は一貫して慎重な立ち位置でいるところがおもしろいな〜と感じました。雰囲気でしゃべっている箇所が見当たらない、というか。一方で、物事の「よさ」「わるさ」については前提の説明もなく断定調なのが特徴的だな〜とも感じました。客観的なデータをふんだんに示しつつ、そうして「世界はよくなっている」と語るときの「よさ」は極めて主観的なように思えます。ぼくはというと、善し悪しについてすら慎重で、著者よりも一歩か二歩かさらに引いているような視点なのかもな、と自覚しました。よい世界ってなんだろう、と考えたときに、ハンス・ロスリングさんたちには明確なヴィジョンがあって、ぼくにはそれがないということなのかもしれません。

目次にも並んでいる 10 の本能がもたらす先入観や偏見は、とても怖いと思います。また同時に、チャンスだとも思いました。多くの人々がふつうに歩いていたら落ちる落とし穴があるとしても、穴があると気付いた人々には回避するチャンスが与えられるわけですもんね。不安や恐怖に必要以上に惑わされずに済むように、ファクトを見出す目を養っていきたいものです。

自分向けへのメモとしては、ずばり訳者あとがきにある通り「自分自身を批判的に見る力を養うこと」「過ちに気付いたらそれを認めて許せる雰囲気をつくること」に尽きます。これは家族と過ごす時間においても、お仕事の時間においても、自分自身と向き合うときにも助けになってくれる視点だと思うからです。

FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

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自分の価値観の輪郭を探る

2018-12-22

はじめに

このエントリは Pepabo Managers Advent Calendar 2018 の参加エントリです。ぼくは 22 日を担当します。きのうは @igashima さんの ストレスとの向き合い方 | 人間万事塞翁が馬 でした。

ぼくはマネージャという立場ではないのですが、ペパボの本社事業部のチーフテクニカルリードになりました に書いた通り 2017 年 1 月からチーフテクニカルリードという職位でお仕事しています。チーフテクニカルリード歴が、もうすぐ丸 2 年になると気付いて驚きました。チーフテクニカルリードはカタカナ 11 文字で長いので、以降は CTL と略語で書きます。

(弊社における CTL についての詳細は 技術組織をスケールするためのCTL = チーフテクニカルリード - Kentaro Kuribayashi's blog が詳しいです)

CTL は、2018 年の我々の業界の語彙でいう「エンジニアリングマネージャ」と呼ばれるロールの成分を多く含みます。そういう意味では、ある面ではマネージャであり、管理職でもあるわけです。そんなこんなで Pepabo Managers Advent Calendar 2018 にも参加しています。

マネジメント、あるいは管理

一般的に、マネージャっぽい役割であればマネジメントのスキルを習得しておくと役に立ちそうです。また、管理職ということであれば、物事を上手に管理できるようになっておくとよさそうに思えました。

実際、CTL になった頃は「あらためてマネジメントについて勉強しよう」と思い、Amazon.co.jp を「マネジメント」で検索したときに出てくるよさげな書籍を適当に選んで読んでみたりもしました。2017 年初頭から 2018 年の春あたりまで、june29 のブックマーク には management タグのついたブックマークがたくさんあります。

しかし、そうやってまるまる 1 年間くらい過ごしてみて、どうにも「マネジメント」「管理」という語彙に対してテンションが上がり切らない自分がいると自覚するようになりました。これは言葉に対する好き嫌いの話でしかないのですが、とにかくぼくはそういう状態だったのです。テンションの上がらない語彙を中心においてがんばるよりは、もっと自分の好きな言葉をふんだんに活用して思考を整理していった方がよいだろうと思い、代わりに「チーム」「組織」「文化」といった語彙を通じて CTL の役割やお仕事を自分なりに考えていくことにしました。

いっしょに楽しく活躍したい

前述したような思考の過程を辿ったぼくは、「マネジメントを上手にやりたい」というよりは「関わるみんなといっしょに楽しく活躍したい」と考えるようになりました。これなら気分が乗ってきます。自分の心の声に近いメッセージを選べているからでしょう。

この観点を出発点として、あれこれを勉強してみたり、試してみたり、取り入れてみたり、捨ててみたり、先輩に相談してみたり仲間と議論してみたり、うまくいくこともあればぜんぜんうまくいかないこともあったりしながら、だんだんとわかってきたことがありました。

それは「自分の価値観をより深く理解することが大事」ということです。もし、自分の価値観がよくわかっておらず、自分や同僚や友人たちの中にどのような価値観が存在するのか・存在し得るのかに意識を向けられなければ、それを受け入れて尊重することも難しいはずです。自分が、関わるみなさんの価値観を尊重できていないとしたら、それはとても怖いことのように感じます。いっしょに楽しく活躍するだなんて、叶いそうにもありません。

だからまず、自分自身の価値観と向き合うことから始めて、整理できてきたものから順に明記していくことにしました。明記したものをもとに「ぼくはこういう考えだけど、あなたはどう?」と対話をはじめて、相手の価値観を引き出して聞き出せたら万々歳です。そこまで進めたら、お互いを尊重しながらいっしょに楽しく活躍していくためのスタートラインに立てたと言えそうです。

自分の価値観の輪郭

さて、それではここから、ぼくがこれまでに自覚してこれた価値観を順に書き出していきます!

認知のパラダイムは「オレンジ」と「ティール」の間くらい

詳しくは 書籍「ティール組織」を読んで、自分の価値観を見つめ直してみた に書きました。図もそこに載せたやつの再掲です。

がんばって自分をなるべく客観的に見るつもりで考えてみて、ぼくの思考のパラダイムは「アンバー : オレンジ : ティール」の比でいうと「1 : 7 : 2」くらいかな、と感じます。ベンチャーやスタートアップでのお仕事を経て、成人して以降の多くの期間をオレンジの傾向が強い組織で過ごしてきたので、思考のパターンもオレンジに強い影響を受けているように思います。

ぼく自身はアンバー的な価値観をほとんど有していないのですが、アンバーのパラダイムが重視しているものがなんなのかわかったのは収穫でした。

アンバーのパラダイムに従って暮らしている人は「規則や規律こそが組織を守る、だから私たちは規則や規律を守ることがとっても大事なのだ」という価値観を持っているので、その価値観においては「みんなで幸せになるために規則を守る」のは理にかなっているのです。そこは否定されるべきものではないのだな、と納得しました。

ティール組織 ― マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

ティール組織 ― マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

損得で物事を考えがち

判断に迷ったら、だいたい「お得だと思う方」を選びます。なるべく損をしたくないからです。

お得を構成する要素はいろいろあって、経済的なお得のように定量的にわかりやすいものもあれば、心理的には「うれしい」「たのしい」もお得だと思いますし、社会的な観点での「この人にはお世話になっているから、この機会に恩返しできるとよい」のようなお得もあります。

こうして書き出してみるとそりゃそうだなという内容ですが、実際の語彙としても、日常的に「お得」という言葉を言ったり書いたりしています。

未来に対する希望的観測

これはサピエンス全史を読んだことで認知できたことです。下記は「サピエンス全史 下巻」からの引用です。

近代以前の問題は、誰も信用を考えつかなかったとか、その使い方がわからなかったとかいうことではない。あまり信用供与を行なおうとしなかった点にある。なぜなら彼らには、将来が現在よりも良くなるとはとうてい信じられなかったからだ。概して昔の人々は自分たちの時代よりも過去のほうが良かったと思い、将来は今よりも悪くなるか、せいぜい今と同程度だろうと考えていた。

こう書いてあって、意外に思いました。ぼくは常々「これからもどんどん新しいテクノロジやプロダクトが登場して、現在のぼくを悩ませていることの大半は未来には問題ごと消えてなくなっているのだろう」と想像しています。科学の力を信じることで得られる楽観ですね。人類というスコープで見ても、ぼく個人というスコープで見ても、10 年後や 20 年後には今よりもっと生産しているし、消費もしていることでしょう。

ぼくらが取り合うパイは拡大を続けているんだ、という捉え方をしています。

サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

  • 作者: ユヴァル・ノア・ハラリ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/09/16
  • メディア: Kindle
サピエンス全史(下) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

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ゼロサムゲームに参加しない

先の「損得」と「未来に対する希望的観測」の両方に強く結びついた考えとして、なるべくゼロサムじゃないゲームを選んで参加している、というのがあります。そのおかげで「自分にとってお得な方を選ぶ」を躊躇せずに実践できています。

もし、社のお仕事における成果がゼロサムゲームだったら、ぼくがたくさんパイを取ったらその分だけ他の人が取れるパイが減ってしまうので、ぼくには遠慮の気持ちが少なからず生じることでしょう。もう 10 年以上も昔の話ですが、売り場に立つお仕事をしていたときはまさにパイの奪い合いという感じがあり、ぼくは苦手でした。今後もゼロサムっぽいゲームには極力関わらないで生きていくと思います。

ぼくが全力で得をするとぼくのまわりにいる人たちも得をする、そんなゲームだったら最高じゃん、と。そんな世界観をもって生きています。

世界の富はどんどん増える、みんなでバンバン稼いでジャブジャブ使っていきましょ〜という資本主義と消費主義の時代に生まれたぼくだからこんな価値観になったのでしょう。

全体主義よりは個人主義

ここでは「個人主義」という概念の詳細に立ち入ることは避けて、全体主義よりは個人主義に寄った考え方を持って暮らしているぞ、ということだけを表明しておきます。

Wikipedia の「個人主義」のページ には大事なことが書いてありました。

個人主義と「利己主義」は同一ではない。個人主義は個人の自立独行、私生活の保全、相互尊重、自分の意見を表明する、周囲の圧力をかわす、チームワーク、男女の平等、自由意志、自由貿易に大きな価値を置いている。個人主義者はまた、各人または各家庭は所有物を獲得したり、それを彼らの思うままに管理し処分する便宜を最大限に享受する所有システムを含意している。

ぼくは個人主義的ではあるけれど、利己主義的ではないつもりです。自分のお得のために行動するけれど、他の人に損をさせたいとは思っていないからです。あなたもぼくも得をする方法を選びましょう、というスタンス。利己主義は、ぼくの損得のモノサシでいうと「損」の色が強いです。そっちを選びたくない気持ちがあります。

人類という種は、種としての存続を目指す特性を有しているけれど、各個体の幸福についてはまったくの無頓着です。人類はぼくを守ってはくれません。全体や集団も、それら自身の発展を望みはするけれど、ときとしてそこに属する個体を犠牲にします。集団はぼくを守ってはくれません。なのでせめて、自分のことは自分で守っていく気概があった方がいいだろうな、と思い、ぼくはぼく自身を存続させるために個人としての権利や主張を使えるだけ使ってやろうと思っています。

成果主義

なんにせよ、質と量の両面で「成果を出している人はすごいな〜」と思って見ています。

自由主義

各位、自分の望む結果を得るべく各位の自由を最大限に活用してやっていきましょう、という考えがベースにあります。自分ひとりで戦う自由も、まわりの協力を得ながらやっていく自由もあります。もちろん、自分からは行動を起こさずに、流れるように結果をただただ受け入れるという自由もあることでしょう。

誰かがぼくの人生の面倒を見てくれるとは思えないので、いつだって後悔しないように、自由の範囲を広げつつ自由を行使して結果を勝ち取っていくぞ、という気持ちです。

楽観主義

そう簡単に死にはしないよな、と思っています。なるようになるさ。

ここで エミール=オーギュスト・シャルティエ の著書「幸福論」からの引用です。

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意思に属する。

ぼくは、自分には自由意思があると信じておきたい人なので、気分に負けない意思としての「楽観主義」をスキルとして身につけておきたい気持ちがあります。身近な人が悲観に飲まれそうなときこそ、ぼくはそれを笑い飛ばしていたいんです。なんでって、その方が成果を出せると思うし、なにより幸せな生き方だと思うからです。悲観に暮れて生きるなんてごめんだ。

経験主義

2018 年の日本でプロダクト開発に関わっていると、とにかく不確実性の高さを感じて止みません。ありとあらゆる物事の変化のスピードが早すぎます。

だいたいにして複雑系を相手にすることになるので、事前にすべての情報を揃えて完璧な予想や計画を打ち立てることは不可能と感じています。その時点で考えられることを考え尽くしたら「ちょっとやってみましょうか」で経験を得るための行動を始めます。このとき、なるべく小さいコストでなるべく多くの気付きを得られるようにやり方を工夫します。

ぼくと同じようにプロダクト開発に関わっている人、特にプロダクトマネジメントを学んでいる人にとっては釈迦に説法な内容だよな、と思いながらこの節を書いています。というのも、ぼくにとっては「そうするしかないよな」と思うくらいに確信に近い考え方ではあるものの、世の中を眺めていると、不確実なことに最初から大きなコストを投じて盛大に空振りする例をちょいちょい見かけるので、現段階ではまだまだ何度でも言った方がよい内容なのかな、と思って書きました。

「ザ・不確実性本」という感じで、不確実性については「エンジニアリング組織論への招待」が詳しいです。

おわりに

他にも書けるようなことはありそうですが、あまり長く書きすぎてもしょうがないので、今回はこのあたりにしておきます。今年はさまざまなインプットと試行錯誤を経て、これまでクリアに捉えられていなかった自分自身の輪郭をたくさん発見した 1 年でした。これをもとに、接点のある人たちとの相互理解を深めていけるといいな… ここからがんばっていきます。

ここに書いたのは、2018 年 12 月時点での自分の価値観のスナップショットです。今から 1 年も経つころには、まるきり別のことは言わないまでも、今日と同じ価値観のまま過ごしているということもないでしょう。これからも随時、価値観は更新されていくと確信しています。

今年、こうして自分の考えをまとめていくにあたって、5 月くらいから少しずつ書き溜めていった june29 の Scrapbox がとても役に立ちました。特にそうですね、#言葉 というタグをつけたページたち には、今回書いたような内容の断片がいくつも記録されています。これからも事あるごとに記録していくことになりそうです。

このエントリは Pepabo Managers Advent Calendar 2018 の参加エントリです。22 日を担当しました。明日は @tnmt さんの CTL一年目のまとめ - hack in 3 minutes です。

あわせて読みたい

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ぼくとウェブログの平成も過ぎゆく

2018-12-22

はじめに

今年 2018 年も、ほとんど毎日をウェブとともに過ごし、ウェブについて様々な想いを巡らせた年でした。ぼくの個人サイトであるここ june29.jp も、いちおうは「ブログ」という体裁で運用しています。ブログブームだなんて言われていた時代はずいぶんと遠く、ブログという概念はそれなりに社会に定着したように思えて、それがウェブログの略語であることはどれほどの人に意識されているのだろうかと、ふと考えてみたりもしました。

このエントリは 2018 Advent Calendar 2018 の参加エントリです。個別の記事のことをエントリと呼んじゃうあたりがウェブログっぽい、と自分では思っています。

かなしい気持ち

こんなことを書き始めちゃう自分がなにより悲しいのだけれど、2018 年はウェブを眺めていて悲しい気持ちになることが多かったように思います。楽しいことやうれしいことはこれまでと同じようにたくさんあったものの、悲しくなったりつらくなったりすることがだんだんと増えてきてしまいました。

さて、せっかく 2006 年 6 月 29 日からウェブログを続けてきたぼくなので、過去のぼくがウェブに対してどんなテンションだったかを見てみましょう。

たとえば 2008 年、今から約 10 年半前に書いた もっとWebにデータを! を読んでみると、テンションが若い感じがしてちょっと恥ずかしかったりもするんですがそれは置いておいて、当時のぼくは「もっと多くの人が、もっと多くの種類のデータを、どんどんウェブに記録しようよ!」というテンションでいたようです。たしかにそんなテンションだった気はします。記録がなかったら思い出せなかったでしょうから、記録は便利ですねぇ。

そいで、今年のぼくはどんなテンションだったかというと先述の通りで、具体的には「なんでそんなことをわざわざ言うんだ、わざわざ書くんだ」「不毛な争いは終わりにしましょ〜」と思うことが毎週のようにありました。ちょいと疲れ気味なときなんかは「人間がたくさん集まるとロクなことにならんね…」「こういう隙だらけな迂闊な発言をしちゃう人は、ウェブで発信しない方がいいと思う、トラブルにしかならんよ」と思うこともありました。

こんなぼくを 10 年前のぼくが見たら、きっとすごく悲しい気持ちになると思います。なんか、ごめんね。

観測範囲の話

「そういう感想を持っちゃうのは、お前がそういうものを見ているからだろ」というのは、その通りだと思います。

今年の夏くらいに「あー、気落ちするとわかっていながらそういう情報を見に行ってしまっているな」と明確に自覚した瞬間があって、一度、自分が日常的に活用している情報チャンネルの整理をしたり、情報収集のやり方を変えたりしました。それでいくらかマシになった部分もあるのですが、まだまだ毒を吸ってしまうタイミングがあるので難しいところです。

基本的に、情報チャンネルはホワイトリスト方式で運用しています。Twitter でいうと「この人たちからは毒素の強い情報は流れてこない」と安心できる人たちのリストがいくつかあって、それらのみを見るようにしています。

「この人の発言は見ない」としてブラックリストを育てる方式もありますが、ぼくにとっては「ブラックリストをメンテナンスしている」こと自体が精神衛生上うれしくないことなので、人生において一切のブラックリストを保持せずに済むようにがんばって暮らしています。

傷ついたって認めてもいい、傷つきたくないって主張してもいい

友人である @hmsk くんのエッセイに 「傷つくなぁ。」 という話があって、これにはハッとさせられたんですよね。ぼくも彼と同じようなことを思いました。

ウェブで発信していくにあたって「ひどいことを言ってくる人がいるのは仕方ない」「無視するのが得策ですよ」「気にしたら負けです」といったアドバイスというか心構えというか、そういうのがあるのは知っています。けど、あらためて考えてみて「ウェブだからしょうがない」と認めてしまうのはよくないのかもな、と考え始めました。ウェブを利用している全員と心からわかりあえるだなんて思っていませんが、だからと言って傷つけ合うのもオッケーとはなりません。わかりあえない相手がいても、互いを尊重しあえるウェブがあっていいじゃないか。ぼくはそういうウェブをあきらめきれないんだな、と思えたのも 2018 年です。

「ウェブは傷つけられる場所なので我慢しましょう」なんて、そんな紹介文は書きたくないもんなあ。

ウェブの父は、なにを思う?

@sot528 さんが書いていた Decentralizationについて語る時に僕の語ること | ALIS をふむふむ〜と読んで、そこからリンクをたどり、ウェブをつくった Tim Berners-Lee さんの最近の問題意識について知りました。

ぼくは「Web 2.0」というフレーズがバズワード化していた頃にウェブに夢中になっていったクチで、ここ june29.jp だってその頃に立ち上げたものだし、あれから 10 年以上を経て「ウェブには次のメジャーバージョンアップが必要かもしれない」という機運が高まっているのだから気にせずにはいられません。いったい「Web 3.0」はどんな姿形をしているのでしょうか。これを考えるのはとても楽しいです。

それでもぼくらは発信していきたい

10 月には 日本人ITエンジニアの90%に記事を書いてほしくない という記事が話題になりました。言わんとしていることはわかるけれど、ぼく個人は「書くな」「書くべきではない」という主張には明確に反対です。「プロリーグで活躍できる実力がある人だけサッカーをやるべき」みたいなお話として捉えました。それだと後進が育たないので、サッカー少年たちも楽しくプレイできる場があった方がいいとぼくは考えます。技術記事のライティングも同じ。書きながら読まれながら上達していくのが効率的なので、安心してそれができる環境があった方が結果的に質の高い記事がたくさん生まれることになると思います。

問題は「マッチング」ですよね。プロの試合を観にきた熱烈なサッカーファンに少年サッカーを見せたら満足してもらえないのは仕方ないと思います。ウェブの歴史をふりかえると、Google のおかげで欲しい情報が見つかるようになったとよろこばれた時代がありました。ぼくらは Google の次を求めているのかもしれません。もちろん、Google の検索エンジンが進化してぼくらが満たされるという展開もあり得るでしょう。

いずれにせよ、情報を発信する人がいなくなれば情報が無になって検索も探索も意味をなさなくなってしまうので、発信を咎めるのには反対です。発信された情報を必要な人とマッチングさせるところをがんばっていきたい考えです。そこを上手くやれるプレイヤーがいたら、次の 10 年の覇者になるのかもな〜とも思います。

おわりに

今年見た中で印象に残っているウェブページたちへのリンクを絡めながら、ちょっと意識して「ウェブログ」っぽい調子で書いてみました。ぼくはやっぱりウェブやブログが好きなんだ、ということをたしかめながら。ウェブとブログがある惑星に生まれてよかった。そして平成も過ぎゆく。

2018 Advent Calendar 2018 の 22 日を担当しました。きのうは @o_ti さんの ベストオブ2018 - dskd でした。明日の担当は @tyore さんです。

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一時的なチャンネルを作っては捨てて Slack をもっと活用する

2018-12-21

ぼくの勤務先であるペパボの Slack での「これはうまいやり方だな」という活用方法をツイートしたら反響があったので、ここに簡単にまとめておきます。

人によっては「チャンネルというのは、気軽に増やしたり減らしたりするものではない」と思っているかもしれませんが、チャンネルを増やしたらオフィスが狭くなるというわけでもありませんし、作っては捨てて、それで快適にやるべきことを進行できるならいいじゃん、というお話です。使い捨ての発想。

たまたまうちでは Slack を使っているので Slack を対象として書きますが、チャットアプリケーションであればだいたい同じお話が適用できると思います。

組織における、全員が済まさなきゃいけないやつ

たとえば、具体的にはこういうチャンネル名になります。

  • #Slackの2要素認証設定のお願い
  • #セキュリティ研修を受講してください

うちのようにせいぜい数百名規模 (2018 年 12 月現在) の組織においても「全員に 5 分ずつ使ってもらって、これを完遂させる」って、なかなか大変です。今回紹介した工夫がなかった場合、

  • 全体チャンネルのような場所で「いつまでにこれを済ませてください」と周知する
  • 期日まで、担当者が定期的に完了状態をチェックして、未完の人のリストを出す
  • 未完の人のリストをもとにそれらの人々の上長に「そちらに未完の人がいるので促してください」と声かけする

のような進め方になり、全員が完了するまで「リストづくり」と「上長とのやりとり」を繰り返すことになりがちでした。全員がシュッと完了させられるならそれでよいのでしょうが、周知のタイミングでおやすみしていて見逃したり、あとでやろうと思っていたけど他のことをやっていたら忘れちゃった、なんてことはよくあります。かくいうぼくも締切の日に「あっ、これやらなきゃじゃん」となったのは一度や二度ではありません。

Slack のチャンネルを使うと、

  • それ用のチャンネルを用意する
  • チャンネルの説明欄やトピック、ピン留め発言などの目立つところに「これを済ませたら抜けてね」と書いておく
  • 全員をそのチャンネルに招待する
  • 期日まで、毎日の適当な時間に「@channel やってね!」と発言する

こんな感じになります。未完の人リストはチャンネルのメンバーそのものになるのでリスト作成の手間がゼロになるのと、未完の人だけを対象にリマインドするのが簡単になる点がよいです。

ほいで、無事に全員が完遂できたら「ご協力ありがとうございました〜」と言ってそのチャンネルはアーカイブするなり捨てるなりするだけです。

突発的な対応をやるやつ

代表的なのは障害対応です。少なくとも数年前から、いろんなソフトウェア開発の現場で「障害対応のときはそれ用のチャンネルを用意して情報をそこに集約させると便利」というのは言われてきたと認識しています。

弊社において、今年はこれをうまくやれたな〜という感触があります。だいたい「発生日」「プロダクト名」「障害要因」を情報としてチャンネル名に含めて、たとえば hogehoge というサービスでデータベース関連の障害が発生したら、

20181221-hogehoge-db

みたいなチャンネルを作ってそこに集まって復旧を目指す感じです。トピックが限定されるので関係ないお話や通知が流れてこなくて集中しやすいのと、いつなにが起こったかを時系列で追いやすくなるのがよいですね。対応完了したらこのチャンネルはアーカイブするわけですが、自分が参加しているチャンネルの一覧にこの手のやつがあると「これアーカイブしたいな」「残りのタスクってなんだっけ」という気持ちになり、ちゃんと Done に向かうという副次的な効果も感じます。

まとめ

社で使うようなチャットアプリケーションにおいては「各プロダクトのチーム」や「部署」「職種」ごとにチャンネルが用意されることが多いでしょう。それらは永続的なチャンネルです。すでに存分に活用されています。

一方で、今回紹介したような「期限付き」「一時的な」「役目を終えたら捨てる」性質のチャンネルは、まだまだ人々に知られていない活用方法がありそうです。そんなことを思って、ぼくが見かけたうまいやり方を紹介しました。

道具にふりまわされることなく、柔軟な発想で道具を活用して、楽しく便利に暮らしていきたいですね!

あわせて読みたい

弊社における、別の Slack の活用方法や遊びについても紹介しておきますね。

「800 個越え?多すぎでは…?」と思って弊社の Slack を確認してみたら 5,000 を越えていました… はい………。

追記

すばらしや〜!

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漫画「テセウスの船」がおもしろい

2018-12-06

これは 2018年オススメのマンガ Advent Calendar 2018 の参加エントリです。12 月 6 日を担当しています。きのうは @adarapata さんの WEB漫画「魔法使い」が完結するまで死ねない でした。

いちおう「12 月 6 日です〜」という体裁で書いていますが、これを書いている今は 12 月 16 日です。めちゃくちゃ遅れました。でも書きます。

今回ぼくがおすすめするのは東元俊哉さんによる 「テセウスの船」です。週刊モーニングで連載中の作品です。

テセウスの船 / 東元俊哉 - モーニング公式サイト - モアイ

テセウスの船

ちなみに「テセウスの船」というのはパラドックスのひとつとして知られる概念です。

テセウスの船(テセウスのふね、英: Ship of Theseus)はパラドックスの1つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体(オブジェクト)の全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき、基本的に同じであると言える(同一性=アイデンティティ)のか、という問題である。

テセウスの船 - Wikipedia

どんな漫画か?

公式サイトに記載されている紹介文がこちら。

1989年6月24日、北海道・音臼小学校で、児童含む21人が毒殺された。逮捕されたのは、村の警察官・佐野文吾。その息子・田村心は冤罪の可能性を感じ、独自に調査を始める。

事件現場を訪れた心は、突如発生した濃霧に閉じ込められ、気が付くと1989年1月にタイムスリップしていた。

「殺人犯の息子」が真実を求め、辿る、哀切のクライムサスペンス。

タイムリープもののクライムサスペンスですね。ちなみに作者の東元さんは北海道出身のようです。ぼくは、北海道出身の人が描く北海道のシーンが好きなので、この作品のそういう部分も好きですね。

この作品を考える上でどうしても頭を過ってしまうのが三部けいさんの「僕だけがいない街」です。無論、これらふたつの漫画を比較してどっちがどうだとか論じるのは野暮だと思うのでそんなことはしませんが、雑におすすめすると「僕街が好きな人は、ぜひテセウスの船も読んでみてくれ!きっと楽しいぞ〜」になります。タイムリープもののクライムサスペンスで、北海道出身の作者さんが北海道のことも描いているのでね。

ただ、要素で見ると共通点は多いものの、作品としてはぜんぜん別のものなので、別物としてバッチリ楽しめます。

ネタバレしたくないけど、少し紹介したい

この作品を構成する重要な要素のひとつに「加害者家族」があります。ウェブ時代を生きる私たちにとって、もっと言えば、こんな辺鄙なところにある個人ブログをわざわざ読んでくれているあなたのような人にとって、加害者家族の生活については、なにかしら思うことがあるのではないでしょうか。なのかしらの事件の犯人とされた人が実名で報道されたとき、その家族の生活にはいったいどんな変化が生じるのか。事件とはまったく無関係だったとしても、家族というつながりがあるというだけで様々な影響を受けてしまうというのは、想像に難くないというか、実際にその手をトラブルをウェブ上で見かけたこともあるんじゃないでしょうか。

そういったところから物語が始まるので、ぼくは 1 巻の冒頭からグッとひきつけられてしまいました。主人公の田村心は、殺人犯の息子です。父親は本当に人を殺したのか。もしこれが冤罪だったとしたら、殺人犯の息子というアイデンティティとともに生きてきた自分の人生は、どうなってしまうのか。これが「テセウスの船」というタイトルとリンクするわけですね。

12 月 21 日に、最新 6 巻が発売!

冒頭で書いた通り、これを書いている今は 12 月 16 日なので、12 月 6 日のエントリにも関わらず 12 月 9 日に投稿されたツイートを平気で貼っちゃいます。

この記事を読んで少しでも興味を持ったあなた、まだ 5 巻までしか出ていないので今からでもすぐに追いつけます。6 巻が出るまでに、5 巻まで読んじゃいましょう!親切心で、Kindle のまとめ買いのためのリンクを置いておきますね。

テセウスの船 まとめ買い Kindle版

おもしろかったら、いいジャン!してね

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書籍「サピエンス全史」の下巻を読んだ

2018-12-05

上巻を読み終えて、下巻はどうしようかな〜と思いながらそのまま半年くらいを過ごし、そのあと「読書が捗らない期」に突入して、それが明けて「またなにか読みたくなってきた!」と思ったときに手に取ったのが下巻でした。手に取ったというのは比喩で、実際は電子書籍ですけどね。

書籍「サピエンス全史」の上巻を読んだ から、ちょうど 1 年くらいが経ちました。

上巻では「認知革命」「農業革命」「貨幣の登場」「帝国の登場」のお話がありました。下巻には「宗教」「科学革命」「資本主義」「超ホモ・サピエンス」などが出てきます!中世から現代、そして未来に向けてお話が進んでいきます。

以下、読書メモです。

宗教について

「宗教」といったときにぼくらが想像するような、いわゆる特定の神サマ的なやつに祈る「ザ・宗教」とは無縁の生活を続けてきたので、宗教というものがなぜ世の中で必要とされるのか、自分にはよくわかっていませんでした。言葉で説明されたら「なるほど」くらいの感覚は得られるのですが、自分の感覚で心からは理解できていないな〜という感触がずっとありました。

サピエンス全史を読み終わって認識は少し更新されて、今のところは「宗教の存在に必然性は別にない」に落ち着きました。無数に存在していた人類の可能性のうち、宗教によって人類が存続した世界線にぼくが生まれたのだ、くらいに捉えました。

たとえば、100 年後の人類が「お金」をやりとりせずに生きているとしたら、その時代に生まれた人々は歴史の教科書に登場する「お金」というものの意味はよくわからないはずです。「お金のトラブルで人間たちが殺し合った」という事件のことを聞かされても「なんで、そんなよくわからないもののために…」となるでしょう。ぼくにとっての宗教はそんな感じ。

ただ、それが存在したことで世界は大きく動いたのだ、という過去があるというだけのこと。

もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。

うむうむ、今のぼくには納得できるロジックです。

私たちは信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくという、神不在のイデオロギーに区分することができる。

ぼくは「神サマではない、別のナニカ」を信じて生きていると思います。

仏教徒がヒンドゥー教の神々を崇拝できたり、一神教信者が悪魔の存在を信じられたりしたのと同じように、今日の典型的なアメリカ人は国民主義者である(歴史の中で果たすべき特別な役割を持ったアメリカ国民の存在を信じている)と同時に、自由市場主義の資本主義者でもあり(自由競争と私利の追求こそが、繁栄する社会を築く最善の方法であると信じている)、さらに自由主義の人間至上主義者でもある(人間は奪うことのできない特定の権利を造物主から授けられたと信じている)。

ハイブリッド信念や〜!

文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で、人間は図らずもその宿主になっていると見る学者がしだいに増えている。ウイルスのような有機的寄生体は、宿主の体内で生きる。それらは増殖し、一人の宿主から別の宿主へと拡がり、宿主に頼って生き、宿主を弱らせ、ときには殺しさえする。宿主が寄生体を新たな宿主に受け継がせられるだけ長く生きさえすれば、宿主がどうなろうと寄生体の知ったことではない。それとそっくりな形で、文化的な概念も人間の心の中に生きている。そうした概念は増殖して一人の宿主から別の宿主へと拡がり、ときおり宿主を弱らせ、殺すことさえある。雲の上のキリスト教徒の天国という信念や、この地上における共産主義の楽園という信念をはじめ、文化的な概念は、人間を強制して、その概念を広めるのに人生を捧げさせることができる──たとえ命を代償に差し出さなければならない場合にさえ。人間は死ぬが、概念は広まる。このように考えれば、文化は他者につけ込むために一部の人が企てた陰謀(マルクス主義者たちはそのように文化を捉える傾向がある)ではなくなる。むしろ、文化は精神的な寄生体で、偶然現れ、それから感染した人全員を利用する。

それを「文化」と呼ぶ、と。

この考え方は、ミーム学と呼ばれることがある。それは、生物の進化が「遺伝子」と呼ばれる有機的情報単位の複製に基づいているのとちょうど同じように、文化の進化も「ミーム」と呼ばれる文化的情報単位の複製に基づいているという前提に立つ。成功するのは、宿主である人間にとっての代償と便益に関係なく、自らのミームを繁殖させるのに非常に長けた文化だ。

ミームだ。

ゲーム理論だろうが、ポストモダニズムだろうが、ミーム学だろうが、何と呼ぼうと、歴史のダイナミクスは人類の境遇を向上させることに向けられてはいない。歴史の中で輝かしい成功を収めた文化がどれもホモ・サピエンスにとって最善のものだったと考える根拠はない。進化と同じで、歴史は個々の生き物の幸福には無頓着だ。

なるほどねぇ。これは生物の自然淘汰と同じだ。優れているから遺る、というわけではない。たまたま遺ったものがぼくらの歴史になった、というだけか。

科学革命について

過去五〇〇年間に、人間の力は前例のない驚くべき発展を見せた。一五〇〇年には、全世界にホモ・サピエンスはおよそ五億人いた。今日、その数は七〇億に達する。一五〇〇年に人類によって生み出された財とサービスの総価値は、今日のお金に換算して、二五〇〇億ドルと推定される。今日、人類が一年間に生み出す価値は、六〇兆ドルに近い。一五〇〇年には人類は一日当たりおよそ一三兆カロリーのエネルギーを消費していた。今日、私たちは一日当たり一五〇〇兆カロリーを消費している(これらの数字を見直してほしい。私たちの人口は一四倍、生産量は二四〇倍、エネルギー消費量は一一五倍に増えたのだ)。

直近約 500 年間って、すごいんだなあ。書籍は縦書きだからこういう数字の表記になっているけれど、横書きにするとめちゃ読みづらいッスね。

科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。

これはやばい。革命だ。「無知の知」を得たのはわりと最近、ということに驚きました。それまでは「◯◯に聞けばわかる」と特定の地位や役職の人を尊敬するか、あるいは「全知全能の神がすべてを知っている」という認識だったんですねぇ。

とはいえ、近代の文化は以前のどの文化よりも、無知を進んで受け容れる程度がはるかに大きい。近代の社会秩序がまとまりを保てるのは、一つには、テクノロジーと科学研究の方法とに対する、ほとんど宗教的なまでの信奉が普及しているからだ。この信奉は、絶対的な真理に対する信奉に、ある程度まで取って代わってしまった。

ぼくなんかは、全身がこの信奉に染まっていると言って差し支えないでしょうね。

とくに注意を向けるべき力が二つある。帝国主義と資本主義だ。科学と帝国と資本の間のフィードバック・ループは、過去五〇〇年にわたって歴史を動かす最大のエンジンだったと言ってよかろう。今後の章では、その働きを分析していく。まず、科学と帝国という二つのタービンがどのようにしてしっかり結びついたかに注目し、続いて、両者が資本主義の資金ポンプにどのようにつながれたかを見てみることにする。

このあたりの物語の紡ぎ方はおもしろかったです。

コロンブスは、無知を自覚していなかったという点で、まだ中世の人間だったのだ。彼は、世界全体を知っているという確信を持っていた。そして、この重大な発見さえ、その確信を揺るがすことはできなかった。

コロンブスは前時代の人、という主張はおもしろい。アメリカ大陸を「インドだ!」と思って原住民をインディアンと呼んでしまったんだねぇ。かわいい。しゃかりき。

世界の陸地面積の四分の一強を占める、七大陸のうちの二つが、ほとんど無名のイタリア人にちなんで名づけられたというのは、粋な巡り合わせではないか。彼は「私たちにはわからない」と言う勇気があったというだけで、その栄誉を手にしたのだから。

匿名イタリア人はコロンブスとちがって現代的だ〜!

アメリカ大陸の発見は科学革命の基礎となる出来事だった。そのおかげでヨーロッパ人は、過去の伝統よりも現在の観察結果を重視することを学んだだけでなく、アメリカを征服したいという欲望によって猛烈な速さで新しい知識を求めざるをえなくなったからだ。彼らがその広大な新大陸を支配したいと心から思うなら、その地理、気候、植物相、動物相、言語、文化、歴史について、新しいデータを大量に集めなければならなかった。聖書や古い地理学の書物、古代からの言い伝えはほとんど役に立たなかったからだ。

未知の大陸において聖書や言い伝えがほとんど役に立たないと気付くの、現代を生きるぼくからすると痛快なストーリーと思っちゃうな。

これ以降、ヨーロッパでは地理学者だけでなく、他のほぼすべての分野の学者が、後から埋めるべき余白を残した地図を描き始めた。自らの理論は完全ではなく、自分たちの知らない重要なことがあると認め始めたのだ。

いい話だな〜。そしてお話はここから「資本主義」へと続いていく。

資本主義について

人類は何千年もの間、この袋小路にはまっていた。その結果、経済は停滞したままだった。そして近代に入ってようやく、この罠から逃れる方法が見つかった。将来への信頼に基づく、新たな制度が登場したのだ。この制度では、人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に換えることに同意し、それを「信用」と呼ぶようになった。この信用に基づく経済活動によって、私たちは将来のお金で現在を築くことができるようになった。信用という考え方は、私たちの将来の資力が現在の資力とは比べ物にならないほど豊かになるという想定の上に成り立っている。将来の収入を使って、現時点でものを生み出せれば、新たな素晴らしい機会が無数に開かれる。

ふだん何気なく使っている「信用 (クレジット) カード」の源流を見た気持ちになりました。この発見、だいぶ最近の出来事なんだなあ。クレジットの起源について、真面目に考えたこともありませんでした。

近代以前の問題は、誰も信用を考えつかなかったとか、その使い方がわからなかったとかいうことではない。あまり信用供与を行なおうとしなかった点にある。なぜなら彼らには、将来が現在よりも良くなるとはとうてい信じられなかったからだ。概して昔の人々は自分たちの時代よりも過去のほうが良かったと思い、将来は今よりも悪くなるか、せいぜい今と同程度だろうと考えていた。経済用語に置き換えるなら、富の総量は減少するとは言わないまでも、限られていると信じていたのだ。したがって、個人としても王国としても、あるいは世界全体としても、一〇年後にはより多くの富を生み出すなどと考えるのは、割の悪い賭けに思えた。ビジネスはあたかもゼロサムゲームのように見えた。もちろん、あるベーカリーが繁盛することはあるだろうが、その場合には隣のベーカリーが犠牲になる。ヴェネツィアが繁栄するかもしれないが、そのときはジェノヴァが窮乏することになる。イングランド王が富を増すには、フランス王の富を奪うしかない。パイの切り方はいろいろあっても、パイ全体が大きくなることはけっしてありえないのだ。

これにもびっくり。自分は当然のように「より豊かな未来」を想像するけれど、これも現代的な発想だったのか〜!大昔の人も「工夫してやっていけば自分たちの生活は楽になる」と考えて行動していたのだと、勝手に思っていました。

過去五〇〇年の間に、人々は進歩という考え方によって、しだいに将来に信頼を寄せるようになっていった。この信頼によって生み出されたのが信用で、その信用が本格的な経済成長をもたらし、成長が将来への信頼を強め、さらなる信用への道を開いた。

なるほどねぇ。

資本主義は「資本」をたんなる「富」と区別する。資本を構成するのは、生産に投資されるお金や財や資源だ。一方、富は地中に埋まっているか、非生産的な活動に浪費される。非生産的なピラミッドの建設に資源を注ぎ込むファラオは資本主義者ではない。スペイン財宝艦隊を襲い、金貨のぎっしり詰まった箱をカリブ海のどこかの島の砂浜に埋めて隠す海賊は資本主義者ではない。だが、自分の収入のいくばくかを株式市場に再投資する勤勉な工場労働者は資本主義者だ。

資本ってのがなんなのか、理解が深まりました。

資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善である、あるいは、少なくとも至高の善に代わるものであるということだ。

自分はすっかり染まってしまっているなあ。別にこれがすべてというわけではないのに、1983 年生まれの自分は「世界とは、そういうものだ」と思い込んでしまっている節があると気付きました。これは時代に押し付けられた価値観だったのか。

資本主義と消費主義の価値体系は、表裏一体であり、二つの戒律が合わさったものだ。富める者の至高の戒律は、「投資せよ!」であり、それ以外の人々の至高の戒律は「買え!」だ。

ハッとしますねぇ。我々の多くは資本主義の傀儡であり、消費主義の奴隷なのかもしれませんな。

個人のありかたについて

資本主義からつながる話として、「個人」についてのお話もありました。

産業革命は、人間社会に何十もの大激変をもたらした。産業界の時間への適応は、ほんの一例にすぎない。その他の代表的な例には、都市化や小作農階級の消滅、工業プロレタリアートの出現、庶民の地位向上、民主化、若者文化、家父長制の崩壊などがある。  とはいえ以上のような大変動もみな、これまでに人類に降りかかったうちで最も重大な社会変革と比べると、影が薄くなる。その社会変革とは、家族と地域コミュニティの崩壊および、それに取って代わる国家と市場の台頭だ。私たちの知りうるかぎり、人類は当初、すなわち一〇〇万年以上も前から、親密な小規模コミュニティで暮らしており、その成員はほとんどが血縁関係にあった。認知革命と農業革命が起こっても、それは変わらなかった。二つの革命は、家族とコミュニティを結びつけて部族や町、王国、帝国を生み出したが、家族やコミュニティは、あらゆる人間社会の基本構成要素であり続けた。ところが産業革命は、わずか二世紀余りの間に、この基本構成要素をばらばらに分解してのけた。そして、伝統的に家族やコミュニティが果たしてきた役割の大部分は、国家と市場の手に移った。

うわあ、直近 2 世紀くらいの話だったのか。

そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。「親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老らが眉をひそめようとも、何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けないとしても、どこでも好きな所に住めばいい。あなた方はもはや、家族やコミュニティに依存してはいないのだ。我々国家と市場が、代わりにあなた方の面倒を見よう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、職を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか」

「人それぞれ、個人が個人であれることが大事」って価値観も、めちゃくちゃ最近のものなんだな〜。

ロマン主義の文学ではよく、国家や市場との戦いに囚われた者として個人が描かれる。だが、その姿は真実とはかけ離れている。国家と市場は、個人の生みの親であり、この親のおかげで個人は生きていけるのだ。市場があればこそ、私たちは仕事や保険、年金を手に入れられる。専門知識を身につけたければ、公立の学校が必要な教育を提供してくれる。新たに起業したいと思えば、銀行が融資してくれる。家を建てたければ、工事は建設会社に頼めるし、銀行で住宅ローンを組むことも可能で、そのローンは国が補助金を出したり保証したりしている場合もある。暴力行為が発生したときには、警察が守ってくれる。数日間体調を崩したときには、健康保険が私たちの面倒を見てくれる。病が数か月にも及ぶと、社会保障制度が手を差し伸べてくる。二四時間体制の介護が必要になったときには、市場で看護師を雇うこともできる。看護師はたいてい、世界の反対側から来たようなまったくの他人で、もはや我が子には期待できないほど献身的に私たちの世話をしてくれる。十分な財力があれば、晩年を老人ホームで過ごすこともできる。税務当局は、私たちを個人として扱うので、隣人の税金まで支払うよう求めはしない。裁判所もまた、私たちを個人と見なすので、いとこの犯した罪で人を罰することはけっしてない。

わはは。とんだ皮肉ですね。国家と戦う個人ってのは、タイムマシンで過去に行って自分が生まれる前に親を消す、みたいなパラドックスを生じさせるのか。これも考えたことがなかったなあ。自分は「個人」というのは自然発生的なものだと思っていた節があるな、と気付くに至りました。

消費主義と国民主義は、相当な努力を払って、何百万もの見知らぬ人々が自分と同じコミュニティに帰属し、みなが同じ過去、同じ利益、同じ未来を共有していると、私たちに想像させようとしている。それは噓ではなく、想像だ。貨幣や有限責任会社、人権と同じように、国民と消費者部族も共同主観的現実と言える。

まさにそうですね。今日もぼくらはハッシュタグでつながってしまうし、そのつながりに居心地のよささえ感じてしまう。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ。

この二世紀の変革があまりに急激だったために、社会秩序の根幹を成す特徴にまで変化が起こった。社会秩序とは元来、堅固で揺るぎないものだった。「秩序」は、安定性と継続性を含意していた。急速な社会変革は例外的で、社会の変化はたいてい、無数の小さなステップを積み重ねた結果として生じた。人間には、社会構造を柔軟性のない永遠の存在と見なす傾向があった。家族やコミュニティは、秩序の範囲内において、自らの立場を変更しようと奮闘するかもしれないが、私たちは自分が秩序の基本構造を変えられるとは思いもしなかった。そこで人々はたいてい、「今までもずっとこうだったし、これからもずっとこうなのだ」と決めつけて、現状と折り合いをつけていた。

歴史を鑑みると、今の人類に対して「変化を受け入れろ」と強要するのは、なかなか厳しいことなのかもしれませんね。とはいえ変化は決してぼくらを待ってはくれないけれど。

人類の幸福と、超ホモ・サピエンスについて

サピエンス全史の上下巻を通しての「締め」という雰囲気が濃厚になる、終盤へ。

ざっくりいうと、人類史において「革命」と語られる変化もいくつかあったけれど、我々の幸福度はさほど上がっていないようだ、と書いてありました。ほいじゃあ、ぼくらはいったいなにを追い求めてここまでがんばってきたんでしょうね…?

そのうえ、人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進歩してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。

これだけ読むと、はちゃめちゃに悲しい生き物に思えてきますね。

なのでまぁ、ぼく個人の目線でいえば「人類の幸福」なんていう大層なことは考えずに、自分と、奥さんと、北海道にいる親と兄弟と、日常的に接点のある数え切れるくらいの人たちの「日々の、ちょっとした楽しい感じ」を大事にして、毎日を過ごして、ゆっくりゆっくり死を目指して歩いていくという、どこかで聞いたことのあるような人生観でやっていくのがちょうどいいんだろうなって思いました。

サピエンス全史と題された長編を読んで「楽しく生きていこう、っと」という感想になっちゃうんだから驚きますよね。まごうことなき小並感です。

書籍にはちょっとした未来予想も書いてあって、それこそ 2045 年のシンギュラリティとか、超人類みたいなところまで言及がありましたが、それについてこのエントリで言っておきたいことは特になかったので省略します。

まとめ

サピエンス全史の下巻を読み終えたので、読書メモを書きました。

サピエンス全史(下) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

上巻と同様、人類の歴史を知ることで「自分はいったい何者なのか」「自分のこの価値観は、どこからきたものなのか」を見つける手掛かりをたくさん提供してくれる書籍でした。ぼくが「これが自分だ!」と感じてきたことの大半は、別に自分のものではなくて、時代に属するものが多いのだなぁと感じて、ちょっと虚しくなったような、でも肩の荷が下りたような、不思議な感覚を覚えました。

けっこう長いんで自分のように読むのが遅い人にはオススメしにくいですが、中身がおもしろいよ、というのはこうして明記しておきます。興味がある人はぜひぜひ。

…と、ぼくがのんきに読んでのんきにオススメしているけれど、もうホモ・デウスの日本語版も出ています。レビューとかを見て、いちばんいいやつを選んでください。

おもしろかったら、いいジャン!してね

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