主観でものを言えばいいところを、なにかしらの理由で客観かのような論調で語って、その結果として炎上する事象が多発するとしたら、社会の闇なんじゃないかなぁ。
「主観」のスコープは「個人」だ。そこで述べられる内容が理解できなくても、共感できなくても、自分とは異なる感覚を持った人がいるのだな、と納得すればよい。一方の「客観」のスコープは、主観のスコープに比べてずっと広い。理解・共感できない内容が述べられていて、かつそのスコープに「自分も含まれている」と感じたら、「いやいや、ちょっと待ってよ、そんなふうに代弁されたら困るぜ」と否定しなければならないだろう。場合によっては、それは強い反発となる。
別に10段の跳び箱だったら無難に跳べちゃう人が、無茶して20段に挑んで、失敗して、怪我をしました、ってお話だったら、無茶しなきゃいいのに、って思う。もしまわりが「挑戦しないのは、よくないことだ」「ここは自分の限界をこえなきゃ」みたいな雰囲気をつくっているとしたら、環境にも責任があるんじゃないの。
だからもし、社会が「主観じゃなくて客観で述べなよ」という空気を醸しているのだとしたら、息苦しくて、悲しいことだなぁと思った。