知りたくないこと、知りたくなかったこと、ってのがある。
知ってしまったら「どうでもいい」で済ますわけにもいかない、何も思わずにはいられない、そんなことは知りたくなかったって思っちゃう。
知りたいことは、自分で選んでキャッチするから、ひとまずそれでオッケーってことにする。
どうでもいいことは、まあ、どうでもいいから、知っちゃったとしても、へぇ、でおしまい。
ぼくの知らない誰かがぼくの知らない誰かを殺しました、とか、ぼくの知らない誰かがぼくの知らない誰かと離婚しました、とか、不意打ちで知らされてしまうときがあって、目や耳から体内に入り込んでしまって、こんなことを知らされてどうしろっていうんだ、知りたい気持ちなんてこれっぽっちもなかったんだ。
報道って、なんなんだろうなあ。ぼくが知りたくないようなことを、過剰に過激に報じるとお茶の間が盛り上がる、みたいなことって本当にあるんだろうか。国民の大部分に向けてブロードキャストされる情報から意識的に遠ざかって数年。特に不便は感じない。むしろ、知りたくもないことを知らされてしまう機会が減って、快適とすら感じる。情報の偏食?情報の栄養失調?そういうのも、あるかもしれない。けれどもぼくは、身近な人たちの小さな幸せのお話を聴いている方が体にいいと思うし、自分の興味分野の動向をチェックしているときにテンションが上がるし、これからもそうしていくだろう。