学業を終えて早数年、わかりやすい「評価」を与えられることがほとんどなくなった。もしかしたら「同期が100人いる」みたいな環境では、100人中◯◯位です、みたいな評価もあるのかもしれないけれど、ぼくはスモールチームばかりを選んで身の置き場所にしているので、だいたいが手の足りていないような状況の中で、じゃあ自分はこれをやりますね、と得意なところで接点を見付けて、それを居場所ってことにして、幸いにも追い出されるような経験もなく、今日までを過ごしている。
小学校のときの「じゃあ今からみなさんを、逆上がりのできる人とできない人に分類します」みたいに、避けようのない評価の場ってのはあんまりなくて、その気になれば、評価らしい評価は避け続けたまま、この世界を歩いていけるだろう。そういう生き方も許容されている… ぼくはそんなふうに捉えている。
ぼくの身のまわりには、かっこいい人たちが何人もいる。30歳にもなってみると、世の中にインパクトを与えるほどの成果を出している人ってのも身近にいて、本当にかっこいいなぁって思う。かっこいい人にはやっぱり惹かれるもので、なんらかのきっかけで近付けた人には、かっこいいお話を直に聴かせてもらうこともできて、そのたびに、しあわせだなぁって思う。かっこいい人は、かっこいい。
どれだけ外界からの評価を避けてみたとしても、自分の内から沸いてくる「かっこいい」の評価は、抑えることができないものだなぁ。かっこいい人と会っていろいろと感じては、じゃあ自分はどうだろうかって考えさせられる。ぼくだって本当は、かっこいい男の子になりたい。
幼少期は、自分の感情を表現するのが、とても苦手で。なにかの勝負に負けることがあっても、「別に悔しくなんかないし」という顔をしがちな、素直じゃない子だったように記憶している。そんな自分だから、20代のうちに本気の悔しさを知って、身が震えるほどの体験を刻めたのは、本当によかった。今でこそはっきりと言える。ぼくは、自分がかっこよく過ごせていない瞬間には、強烈な悔しさを感じる。くそっくそっ。
今日、うたた寝の途中で、夢を見た。船だったか電車だったかははっきりと思い出せないのだけれど、夢の中のぼくは、まさに出発しようとする乗り物に、乗り遅れそうになっていた。すごく曖昧だけど、そんな夢だった気がする。
夢の中のぼくは、昔の自分みたいに、「まぁ、乗れなかったら乗れなかったでいいし」と、強がる表情をしていたんじゃないかなぁ。目覚めてから、それがとてもかっこわるいことのように思えて、いやだなぁと思って、頬を張るつもりでこの文章を書いた。くそっくそっ。
かっこいい男の子になりたい。そうなるためには、覚悟を決めて行動を起こすしかないってことも、わかっているつもり。まわりにいるかっこいい人たちは、みんなそうしているもんな。