世界で最初のコンピュータが生まれたあと、しばらくは、それはもう貴重なリソースで、みんなで交代に順番に使っていたはずで。そのときに「各個人が1台ずつ自由に使えるような世界にしたい」と思うのは自然なことだろう。2014年では、パーソナル・コンピュータはかなり普及していて、まさにパーソナルにコンピュータを活用できる世界が現実のものになっている。
さて、立ち止まって考えてみる。たとえばリビングにあるテレビは、パーソナル・テレビだろうか。もし5人家族の家のリビングにあるテレビならば、それが「誰のものか」なんて、あんまり気にしないのではなかろうか。なんとなく「家族みんなの共有のもの」と認知されているのではないか。多くの家電ってのはそういう性質があって、洗濯機も、冷蔵庫も、蛍光灯も、特定のパーソンの所有物としてパーソナルな扱いはされないと思う。「家電」っていう名前が示すように、それは個人ではなく「家」に紐付いているのだろう。
ときに「家族共用のパソコン」というフレーズが耳に入ってくる。パソコンが何の略かを冷静に考えてみると、おかしなフレーズだ。家族共用のコンピュータだとしたら、それはパーソナル・コンピュータではなく、ファミリー・コンピュータになるはずだ。ファミコン。
いわゆる「携帯電話」「ケータイ」「スマフォ」なんてものも、けっこう個人で使うことを前提として設計されているように感じる。パーソナル・フォン、つまりパソフォンだ。近年においては、アドレス帳という機能が、個人の交遊関係に強く結び付き、共有することがむつかしいからだろうか。
ふと、リビングにぽーんと置いてあるタブレット端末を見たときに、それは別に「どうしても個人で使いたい」という類のものではない、と思ったことがあった。そのタブレットで電子書籍を読もうと思ったら、なんかしらのアプリに誰かしらのアカウントでログインして、という手順を踏むことが多いけれど、誰かが買ってきてリビングにぽーんと置いてある書籍は誰でも気軽に読めるわけだし、必ずしもログインをしたいわけじゃない。
タブレット端末で Google Maps のアプリを起動して、ふたりでそいつを両側から挟み、同じ地図を見て、「もっとこっちじゃない?」「いや、この駅よりは東のはずだよ」なんて言い合いながら、お互いがお互いの指で地図を引っ張り合う。ひとつの端末をふたりで同時に操作する。おおっと、パソコンやパソフォンでは、ふたりで同時に操作するってことがぜんぜんないのだなぁ、と気付く。パーソナル・コンピュータやパーソナル・フォンにとっては、それは筋の通った設計なのだろうけれど、果たして、ぼくらが生活の中で活用したいのはパーソナル・サムシングなのだろうか。
各個人が別々にプレイしてスコアを競い合うゲームも楽しい、通信対戦で勝敗を決するゲームも楽しい、けれど、ひとつの画面の上に指を走らせて、ときには指をぶつけたりしながら、本来は1人プレイ用のゲームをふたりでワーワーとプレイしてみて、なんだこれ楽しいじゃん、って思った次第です。