「ごめん、元ネタわかんない」
友だちとのふつうの会話の中でそんなことを言われて、ぼくは戸惑ってしまった。なんでかっていうと、ぼくは別になにかの物語の台詞を言ったわけではなくて、相手がくれた言葉に対して、自分の言葉を返しただけだったのだ。強いていえば、元ネタはぼく自身だ。
たしかにぼくは「台詞」が大好きだ。少年漫画をたくさん読んで、そこに登場するたくさんの台詞たちに触れて、言葉を覚えた。最近は青年漫画もたくさん読むようになった。それらの影響を色濃く受けているとしても、不思議ではない。実際に、日常会話の中にも種々の台詞を盛り込んで楽しんでいる。そのことは認めよう。「寿司はいいね。寿司は心を潤してくれる。リリンの生み出した文化の極みだよ」とか言う。
ほいじゃあ、ぼくが「ぼくの言葉」と思っているものは、どこまでがぼくの言葉なのだろう。ぼくが自然と声に出して、文字に起こしている言葉たちは、どこかで読んだり聞いたりした言葉を、ぼくという言路をちょっと通過させただけで、ぼくの言葉ではないのだろうか。これは「自分の肉体は、どこまでが自分の肉体か」という議論にも似ているかもしれない。ぼくらの肉体も、食べて飲んで摂取したものを組み替えて構成されているのだから。
「バッハの時代には、全ての日常会話のフレーズは出尽くした」と言われている。言われていない。言われていないとしても、バッハは関係ないとしても、バッハの旋律を夜に聴いていないとしても、フレーズは出尽くしていてもおかしくはない。そんな中で、ぼくはどれだけ「自分の言葉」で会話を続けられるだろうか。すべての文章の語尾に「だってばよ」を付ければ、オリジナルでいられるだろうか。
言葉は、言葉だ。「ありがとう」という言葉は、誰にとっても「ありがとう」だ。だとすれば、そこに伴わせるなにか別の要素を持って、言葉は自分のものになるのだろうか。あのとき、ぼくが発した言葉は、なにも伴っていないように感じられたのかな。それで、冒頭のような台詞が返ってきたのかな。
この文章はこの文章で、ぼくの文章っぽい感じがする。
追記
ちなみに、本文中で使った「言路」はぼくの造語だと思っていたら、すでにそういう言葉があったらしい。ぼくは「言葉の通り道」というようなニュアンスで使ってみた。ぼくの言葉だと思っていたけれど、ぼくの言葉じゃなかった。しゅん。