数年ぶりにテレビを楽しむ生活が戻ってきたので、最近、テレビについて感じていること、そこから派生して考えたこと、などを書く。
テレビっ子
小学生のころ、テレビを観るのが大好きだった。中学生のころが、ぼくのテレビっ子としての全盛期で、毎週、どの番組とどの番組を観るかしっかり決めていて、こまめに録画も行っていた。当時の録画先は VHS のビデオテープだ。
テレビ離れ
高等専門学校の寮では、低学年のテレビの持ち込みが禁止されていて、中学生のころから一転して、ぼくは一気にテレビから離れることになった。すっかりテレビのない生活に慣れてしまったぼくは、そのまま30歳になるまで、自室にテレビを置かない生活を続けた。20代前半からウェブ大好きっ子になったこともあって、テレビがないからといって不自由を感じることもほとんどなかった。でも NHK の受信料は支払っていた。
テレビ、再び
いま、同棲生活がはじまって、リビングにテレビがある。テレビとの出会いをやりなおしてみたときに、ひとつの疑問が浮かんできた。はて、ところで「テレビ」とはなんだろうか。
30歳のぼくは、「テレビ局が制作したテレビ番組の再生機」「据え置き型の大画面ディスプレイ」という2つの軸で考えてみた。テレビっ子だった小学生〜中学生のころには、この2つをわけて捉えずに、ただただ「テレビ」と捉えていただろう。
いつもインターネットに接続されたラップトップを手に馴染んだ道具として活用し、ウェブに籍を置いて活動を続けているぼくにとって、コンテンツに困ることはほとんどない。なので、テレビの「テレビ局が制作したテレビ番組の再生機」という面には、さほど執着がなかった。自分がテレビ離れしているなぁと認知したときも、テレビ以外にも楽しいものはたくさんあるしな、という気持ちでいた。
一方で、今のぼくが楽しんでいるのは「据え置き型の大画面ディスプレイ」としてのテレビだ。リビングにテレビがあって、ここに、テレビ番組の他にもいろんなもの映して、同居人と楽しい時間を共有している。これだ。
ぼくが愛用しているラップトップは「パーソナルコンピュータ」として設計されて進化したものであって、いわゆるパソコンやら、昨今のモバイル端末にしても、「個人のユースケース」が尊重されているように思う。テレビには「家族のユースケース」を感じる。パーソナルコンピュータに対応させて呼ぶとすれば、「ファミリーコンピュータ」だろうか。
時代が「ソーシャル」というキーワードを連呼しても、デバイスの多くは「パーソナル」を前提とした設計が根強く残っているのではないか。ぼくがこれまでパーソナルに楽しんできたコンテンツを、ファミリーのものとして投影すると、そこには別の楽しみ方があった。リビングのテレビに Apple TV をつなげて、自分のラップトップやモバイル端末の画面を同居人といっしょに楽しむのだ。自分の iPhone でプレイ中のゲームの画面をテレビに映してみるだけでも、けっこう楽しいものだ。
パーソナルを拡張するテレビ
おそらく、一人暮らしのときには気付かなかったであろう、複数人で共有するディスプレイとしてのテレビの魅力に気が付いた。
ここのところ、生活環境が変わったことによって気付くことがたくさんあって楽しい。そんなことをよく書いている。今回は、テレビについて書いた。