#june29jp

2016年と言葉

2016-12-19

今年の後半は執筆をがんばっていて、お仕事では当然のこととして読みやすい文であるとか、テーマにそったまとまりのある文章を書くことばかりだったので。今回こうして、もうなんのつながりなのかわからないまま10年くらいウェブ上での交流を続けている @taizooo さんから声をかけてもらって 2016 Advent Calendar というよくわからないものに参加できて光栄です。せっかくのフリーテーマなので、指の赴くままに散文を書いてみることにしました。読みやすさは度外視です。ごめんね。今風のアイキャッチ画像もありません。ひたすら、ぼくの脳から零れ落ちるテキストたちです。ごめんね。

言葉

好きなことを書いていいんだ!と思ったら、言葉をテーマにしようと思った。

それは、ここ数日の間に話題になった「無線LANケーブル」の影響があるかもしれない。言葉というのはおもしろい。これには「Facebookに写メできる」と似た匂いを感じて、ぼくはうれしくなってしまう。最近の若い世代には「巻き戻し」という表現がピンとこないというのもおもしろい。記録メディアとしてのテープを知らないから、巻いて戻したことがないと聞いて納得する。ところで「踊り場」が通じない世代、っていうのはどういうことなのか詳しく知りたい。

あるいは、放送中のアニメ「舟を編む」を楽しく観ている影響があるかもしれない。映画を観たのは去年だっただろうか。アニメ化すると知って、映画がとてもおもしろかったのでアニメの方も観てみようと思えた。「言葉は生き物、時代とともに変化する」といった言説が多くて、おおいに共感するのでうれしい。JK流行語大賞や腐女子流行語大賞を離れたところから眺めて「これは間違った日本語だ」というのは簡単だ。とはいえ、それで意思疎通できている人たちがいるわけで、言葉としての機能は満たしていて、よく使う言葉がどんどん短くなっていくのは言語特性として全うだ。よく使う操作のキーボードショートカットは覚えられることが多いし、JKが「マ!?」と言うとして、それはぼくがgitコマンドにgというエイリアスを割り当てるのと同じことなんだろう。

ある中学校の先生が「最近の若い人たちが気軽に写真を撮るのは、昔の人たちが俳句や和歌を詠んだのと同じ、だからどんどん写真を撮るといい」と言っていたらしい。果たして本当にそんな先生がいるのかはぼくにはわからないけれど、そういう捉え方があると知ってうれしくなった。ぼくらは今も昔も毎日を生き、なにかを感じてはそれを表現したいと願い、言葉を発し、ときには歌い、ときには踊り、でも自分の言葉や感性ではうまく表現できないことも多くて、拙い言葉を並べてみたり、語彙の無さを呪ってみたり、言葉の代わりに写真に頼ってみたり、音楽に乗せて体を揺らしてみたり、自分の感覚にぴったりの言葉を誰かが並べてくれているのを見つけてそれを拡散したり、またリブログしたり、西野カナに共感したりする。ぼくはTumblrが大好きなので、アメブロの「リブログ機能」はなんか違うと思っているんだ。

ふぅ。久しぶりに散文を書いてみたら、ちょっと疲れちゃった。けどいいね、気分は上々。140文字っていう制限を気にせず文字を打ち込めるtextareaってのはいいもんだ。

さて続き。

漫画「BLEACH」が完結してしまった。作者のkubotiteさんがこれまた、言葉を紡ぐじゃないですか。iOSの「BLEACH」のアプリであらためて第1話から順に1日1話のペースで真面目に読み進めているわけですが、言葉選びのセンスが独特で、こっちとしては挿絵が豊富に入った詩集を読んでいるような気分がする。そういう意味では楽曲に近いというか、音に乗せて耳に届く言葉に力が宿るように、物語と絵画とともにやってくる言葉だから力強く感じるのかもしれない。言葉好きなぼくとしてはちょっと寂しくもあるけれど、物語として、漫画としてみれば、いい形で終わったのだと思う。おつかれさまでした。

ぼくはけっこう、言葉に頼っちゃうなあ。もっとこう、態度であるとか、表情であるとか、他にもチャンネルはいろいろあるとはわかっていても、ついつい言葉に頼ってしまう。特に、いくぶん歳の離れた後輩になにかを伝えなきゃいけない役割になったとき、言葉をね、矢継ぎ早に浴びせてしまうことがあるなぁと思う。ちゃんと伝わっているかな、大事にしたいことを共有できるといいな、って思ってちょっと不安なとき、間を言葉で満たしておかないと不安に負けそうになってしまう。そうして空間を言葉で満たそうとして、短い時間で同じことを何回も言ってしまう。なぜだか、言葉で満たされていると少し安心する。

たぶん1年前は「自分のブログを持つとして、スマートフォンから更新できることは大事」と思っていたはずで。要件のひとつとして数えていた。でも実際に日々を過ごしてみてはっきりとわかって、ぼくはスマートフォンでたくさんの言葉を入力することができない。どうしても、商売道具でもあるQWERTY配列のフルキーボードってやつの入力速度と比べてしまって、スマートフォンで文字を打ち込んでいると「ああ、なんでこんなに遅いんだ」と思ってつらくなって手が止まっちゃう。もう古い世代ってことになるんだろうね。スマートフォンで大学の卒業論文を書ける世代の子たちはすごい。ぼくから見ると新人類。そういや、おじさんたちが「花金!!!!1」みたいにビックリマークをたくさん並べたあとに数字の1をつけるの、スマートフォン世代の人から見たら意味不明だろうと思う。「なんでそこに1をつけるんです???」って感じだと思う。あとは「くだしあ」も同じかな。QWERTY世代の人たちにだけ通じる一過性の文化という感じがする。遠い未来に2000年代〜2010年代のデータが発掘されて読み取られたら、言語学者にとっては非常に貴重なデータになりそう。

「文脈」についても書いてみよう。今年はクソリプを死ぬほど見かけた年でもあったな。クソリプ。都内の路上に落ちているゴミくらい、クソリプは簡単に見つけることができる。クソリプもおもしろい。眺めている分にはおもしろい。クソリプは文化。なにかとってもおもしろい、良質のコンテンツであるツイートを見つけたとして、そこにクソリプが大量にぶらさがっているのを見ると一瞬で気持ちを冷ますことができる。クソリプとはよく言ったもので、おいしい料理にクソを添えるみたいなもので、文脈を完全に無視して言葉を投げ付けるとあらゆるものが死滅する。どうしてクソリプが生じるのか?と考え始めると帰ってこれなくなりそうなので、あんまり考えないようにしている。世界のクソリプ展ってのがあったら行ってみたい。気絶するほどのクソリプに出会ってみたい。

あとは絵文字。今年は、ぼくが生きてきた中で最も多く絵文字を使った1年だったと思う。絵文字はすごい。PHSを持ち始めて楽しくて仕方なかった16歳のぼくも、まさか33歳の自分がもっともっとたくさんの絵文字に囲まれて暮らしているとは思っていない。絵文字も、2016年に「言葉」を語る上で無視できない存在。絵文字はとてもよいもの。人と人の関係をちょっぴりよいものにしてくれる、いいやつ。絵文字関連の人的トラブルって見たことがない。絵文字は平和をもたらす。データベースと文字コードまわりのトラブルはよく見かけるけれど…。

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さてさて、思う存分に散らかすことができたので、大満足でエントリの公開ボタンを押そうと思います。2017年も、きっとまたおもしろフレーズがたくさん生まれて、ぼくはにこにこしてしまって、言葉と、人々と、この世界のことを想うのでしょう。来年もきっと、素敵な言葉に満ちた年でありますように。

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