#june29jp

デジタルネイティブじゃない1983年生まれのわたしの話

2011-02-19

世代感がとても面白かったので、自分も乗っかりで書いてみましょう。どうも、1983年6月29日に北海道で生まれました、アラサー婚活男子のじゅーんと申します。

わたしは自分を「デジタルネイティブ」だなんてこれっぽっちも思ってないけど、 上も下もほんの5歳違うだけでずいぶんデジタルな世界との付き合い方が違うだろうとは思う。

デジタルネイティブじゃない1989年生まれのわたしの話 – はみだし

あとから書いてくれた人の分を追記。

話題としては「メディア」「デジタル」「インターネット」を中心として、ちょいちょい、そのときどきの流行や印象に残っている出来事を挟んでいく感じになります。

先に補足しておくと、自分は、園児・児童・生徒・学生時代を、ずっと北海道で過ごしました。なので、特に「インターネット以前の、流行のモノ」については、たとえば東京で育った同い年の人とは、少し時間がずれてしまうかもしれませんね。北海道の田舎の市町村に流行のモノがやってくるのは、発信源で流行してからようやく1年後、だったりしましたから。

年度 年齢 学年
1983年度 00歳
1984年度 01歳
1985年度 02歳
1986年度 03歳
1987年度 04歳
1988年度 05歳 幼稚園 年中
1989年度 06歳 幼稚園 年長
1990年度 07歳 小学校1年生
1991年度 08歳 小学校2年生
1992年度 09歳 小学校3年生
1993年度 10歳 小学校4年生
1994年度 11歳 小学校5年生
1995年度 12歳 小学校6年生
1996年度 13歳 中学校1年生
1997年度 14歳 中学校2年生
1998年度 15歳 中学校3年生
1999年度 16歳 高等専門学校1年生
2000年度 17歳 高等専門学校2年生
2001年度 18歳 高等専門学校3年生
2002年度 19歳 高等専門学校4年生
2003年度 20歳 高等専門学校5年生
2004年度 21歳 大学3年生
2005年度 22歳 大学4年生
2006年度 23歳 大学院1年生
2007年度 24歳 大学院2年生
2008年度 25歳 社会人1年生
2009年度 26歳 社会人2年生
2010年度 27歳 社会人3年生

この表は、それぞれの年度にボクが何歳になり、そのときどんな学年だったかをまとめたものです。この手のお話をするとき「2001年っていうと、自分が何年生のときだっけ…」と分からなくなることがしばしばあるので、まとめておきます。

それでは、はじめましょう。

わたしが生まれた年

1983年 – Wikipedia

4月15日、「東京ディズニーランド」開園。7月15日、「ファミリーコンピュータ」発売。9月1日、ロッテ「チョコパイ」発売。11月1日、花王「バブ」発売。11月11日、劇団四季のミュージカル「キャッツ」開始。

チョコパイちゃんもバブくんも同い年だったのか… 勝手に年上だと思っていて敬語を使っていました。

幼稚園まで

親父と妹とボク

とっても懐しい写真。

ファミコンは家にあった。よく親父と「ドクターマリオ」で対戦していて、ずいぶんと鍛えられたので、友達に負けることはなかった。いつだったかな、熱を伴った風邪の治りかけのときに、食欲が快復したことで調子に乗って苺をアホみたいに食べていたら、オエーって戻しちゃってファミコンの本体に赤を塗ってしまったのだったかな。なので、うちのファミコンはちょっと赤いです。

プラレールで遊ぶのが大好きだったのは、幼稚園のときだろうか。そういや、小さい頃は、家に「トム&ジェリー」のトムの、自分より大きいぬいぐるみがあった気がするよ。トム&ジェリーは、テレビで放送されていたと思います。それと、ミッキー様もいらっしゃったはず。ドラえもんの目覚まし時計もあった。

小学校

初代ゲームボーイが我が家にやってきたのは、1年生のときだった気がする。最初は、テトリスと、スーパーマリオランドがあって、どっちも数え切れないくらいプレイしました。テトリス、スコアが10万点をこえると、ロケットが打ち上がるんだっけね。スーパーマリオランドは名作です。またキョンシーと戦ったり、洞窟ステージで上に登ったり、シューティングゲームで遊んだり、したくなったよ。

スーパーファミコンは、2年生のときだったっけ。最初に手に入れたカートリッジは「スーパーマリオワールド」(俗称: マリオ4) です。ストリートファイター2を買ったときは、ぜんぜん話したことのないお友達がスト2目当てで遊びにきてびっくりしたことを覚えています。

他に夢中になったゲームと言えば、「ロックマン」や「ロックマンX」のシリーズかな。ファイナルファンタジーは5や6が世を賑わしていました。ドラゴンクエストでいうと5の時代。そうそう、週刊少年ジャンプの他に「Vジャンプ」を買って応募券を集めて応募すると、ファイナルファンタジーが発売日前日に届く、とか、そういうキャンペーンがあったよ。Vジャンプは、ちょっと裕福な家のお友達しか買えないイメージがありました。

たまに行くことがあったボーリング場のゲームセンターには「ぷよぷよ」がありました。親父はもともとパズルゲームが大好きで、ぷよぷよも好んでプレイしていました。好きになりすぎて、ぷよぷよのために「メガドライブ」のハードを買っちゃったんですよ。自分にとってはラッキーで、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」を中古で安く買ってきて遊んでいたなあ。そのあと、ぷよぷよがスーパーファミコンに移植されるんですけどね。あはは。

「Jリーグ」が開幕したのは、小学校4年生くらいのときです。みんな熱気に包まれていたように思う。初期のヒーロー外国人は、アルシンド、ビスマルク、ストイコビッチ、リトバルスキー、シジマール、ラモス瑠偉。テレビ CM にもよく出ていましたね。「Jリーグカレー」も懐しいや。日本人では、三浦知良選手が人気でした。キング・カズ。カズダンスは日本中のサッカー少年が真似をしたんじゃないかなあ。自分も例外じゃなく。

漫画は「ドラゴンボール」。家族でごはんを食べに行った定食屋さんの本棚にドラゴンボールがあると、喜んで読んでいたな。フリーザの圧倒的な強さに絶望した世代です。それと、これなしに語れないのは「スラムダンク」でしょう。これを呼んで中学校からバスケットボールを始めた子は数知れず。少女漫画では「セーラームーン」「ママレードボーイ」のアニメが放送されていました。あとは、そうだなあ。「おぼっちゃまくん」「きんぎょ注意報」「南国少年パプワくん」「魔方陣グルグル」なんかを覚えています。

あ、そうそう。サザエさんのアニメは、週に2回の放送でしたね。日曜日だけじゃなくて、火曜日も放送されていた。「火曜日の方のサザエさんのオープニングテーマ」と聞けば、同年代の子たちはピンとくるはず。

「どうとく」の授業では、NHK 教育の「さわやか3組」を見ました。自分は、ちょうど3年生4年生のときに3組だったので、なんか嬉しかったですね。親しみを持って見ていました。

バラエティ番組。志村けんさんと、田代まさしさんが、大好きでした。「志村けんのバカ殿様」のシリーズは、欠かさずに見ていましたね。録画して、兄弟みんなで何度も繰り返し見て、そのたびに笑っていました。地上波でおっぱいを拝見できたのも、この時代の大きな特徴です。「ボキャブラ天国」の放送がはじまったのも、小学校のときでした。

親父が週刊少年マガジンを買っていたので (今も買っている)、その頃にマガジンで連載していた漫画は愛着を持って読んでいました。「湘南純愛組」「カメレオン」「破壊王ノリタカ!」などなど。「金田一少年の事件簿」の全盛期ではないでしょうか。

自分は、おもちゃが好きな子でした。ミニ四駆。ビーダマン。ハイパーヨーヨー。だいたい手を出していたように思います。ミニ四駆は、「ダッシュ!四駆郎」よりも「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」に近い世代です。「アバンテJr.」に憧れる気持ちも分かりつつ、「トライダガー」の新種に何より胸を踊らせていました。レゴも大好きだったな。レゴのカタログの最後の方にある、パーツのバラ売りのところを見て、どれをどれだけ買ったらいくらになるかって、見積りを出してはおこづかいと相談し、ワクワクしていました。

高学年になった頃、次世代ゲーム機「セガサターン」「プレイステーション」が登場しました。ずいぶんと衝撃を受けました。「バーチャファイター」や「鉄拳」の最初の作品を楽しみました。確か、「バイオハザード」の1作目も、小学校の卒業間際に発売されたんじゃなかったかな。旅館の息子がクラスにいて、その子の家に泊まりにいって、旅館のお部屋みっつをぶち抜いて大きなお部屋を作り、3台のテレビを設置し、スーパーファミコンとプレイステーションとセガサターンを一晩中プレイするようなお泊まり会を開催していました。詳細は省略するけれど、当然、性的な映像の鑑賞タイムもありました。

事件としては「地下鉄サリン事件」を覚えています。あれは小学校の授業時間中だったと思うんですけど、先生がテレビの電源を入れて「なんちゃらサティアンで逮捕されました」みたいな報道を見守った、そんな覚えがあります。

小学校時代は、パソコンなんて言葉は耳にすることもなくて、親父の持っていたワープロ、東芝の「ルポ」をたまに触っていました。思えば、小学生時代にルポのキーボードを叩いたのが、自分のタイピング童貞喪失のタイミングだったわけですね。なんだっけな、ルポで、クラスの座席表を作って、学校に持っていって、先生に褒められたんだっけな。うろ覚えだけれど、そんなことがあったと思います。「均等割付」は「すごいなあ、便利だなあ」と思って使っていました。

年賀状は「プリントごっこ」で作っていました。親父がプリントごっこで作業する姿を見るのは、なんだか好きでした。

中学校

女の子の友達から家に電話が掛かってくるようになりました。携帯電話がない、どころではなく、我が家の電話はコードレスですらなく、子機もなく、でした。リビングの壁に設置されている電話機を壁から外し、電話線をめいいっぱい伸ばして隣のお部屋に持っていき、受話器のコードもめいいっぱい伸ばして、とにかく家族から1cmでも離れた位置で通話しようとしていました。恥ずかしいですからね。これは、日本人が失ってしまった体験かもしれません。

土曜日の夜に放送していた「めちゃめちゃモテたい」の最終回、今でも少し覚えているなあ。後の「めちゃめちゃイケてる」である。めちゃモテを見た次の日の朝に部活の練習があると、眠くてつらかったっけ。

ボクが1年生のとき、学校内でトップクラスに女子の人気があった3年生の先輩は、3階から階段を降りてくるときに、テトラーで遊んでいました。キーホルダー型のテトリス専用機。異常に流行っていて、本当にみんな持っていた。値段は1000円くらいだったと思う。

中学校1年生のとき。ある日、隣の席の女の子が、帰りの会のときに思い切りそわそわしていて、ポケットに手を入れたり、机の下で何かしていることに気が付いたことがあって。ちょっとして「たまごっち」を操作していると分かりました。次の日に「たまごっち、ちゃんと育っているかい」と聞くと、「えっ、なんでバレたの…」と返ってきました。たまごっちが入手困難だった時期です。うちの妹も欲しがっていて、母親が、どこからか入荷情報を仕入れてきて、おもちゃ屋さんに並んで買ってきたっけ。

Nike の「エアマックス」、カシオの「Gショック」。このあたりも大流行しました。自分が通っていた中学校でも「エアマックス狩り」がありましたよ。今にして思えば、なんなんだろう、という感じですが、当時は、真剣でしたねえ。校内でエアマックス95の燃えカスが見つかって、全校集会が開かれて、校長先生が怒鳴る。あっはっは、本当に懐しいや。

中学校1年生のときに好きだった子が、教室掃除のときに、モップをかけながら「パフィ」の「アジアの純真」を歌う姿がかわいらしかったのを、なんとなく覚えている。広末涼子が歌手デビューしたのも中学生のときです。「MajiでKoiする5秒前」ですよ。ちょっと怖い (でも、かわいい) 女の子が「大和田のTシャツの〜」という替え歌を大声で自分に向かって歌ってきて、盛大にとまどったのでした。

アイドルと言えば「モーニング娘。」でした。それから、ビジュアル系バンドの最盛期を迎えます。中学校の合唱コンクール、4組は「河村隆一」の「Glass」を歌っていましたよ。すごい時代です。

音楽メディアは、カセットテープから「MD」へと、次第に移っていきました。お金持ちの家の子から順番にね、MD コンポとか、手に入れちゃうんだよね。CD をレンタルしてきて、MD に録音する。生活の中にある、基本行動でした。

男子のほとんどは、夜更かしして「トゥナイト2」を楽しもうと一生懸命でした。「ワンダフル」との間でチャンネルを行ったりきたりさせた夜が、どれだけあったことでしょうか。友達の通っていた中学校の野球部では、オフィシャルに「トゥナイト2禁止」という規則ができた、と聞きました。だいぶ面白いです。

中学校3年生のときかなあ。ようやく「パソコン」と出会う機会が、このあたりであったはずです。恐らく親父が買ってきた Windows 95 のインストールされた、今にして思えば貧弱なノートパソコンが家にあって… あんまり思い出せないなあ。自分はとにかく「パソコンのゲームをやりたい!」と思っていて、だけど、パソコンをおかしくして親父に怒られるのはイヤだったから、控え目にパソコンと接していた気がします。それでも、何度か、本当に冷や汗をかくような事態には陥って、OS のリカバリ手順は覚えましたね。

活躍するプログラマのインタビューでよく読む「プログラムのソースコードを打ち込んで、動かして…」みたいな少年時代のエピソードは、自分にはまったく存在しないのです。

ひといき、ついて

さーてさてさて。よくぞ、ここまで長文を読んでくれましたね。お疲れさまです。ひといき、つきましょうか。

やあやあ、まったくもって「インターネット」が登場しません。このままだと、ただの思い出話エントリになってしまいますね。続きもお付き合いいただける人、ありがとうございます。もう少しで「インターネット」が登場します。

高等専門学校

高等専門学校1年生。ここでようやく「PHS」が登場します。自分は学校の寮に入っていて、大義名分は「親との連絡用」として買ってもらいましたが、実際のところは、ほとんど、恋人や友人との連絡に活用していました。コミュニケーションが劇的に変わりました。持っている人と持っていない人の比率は、どれくらいだったかなあ。6:4くらい、でしょうか。新機種の目玉機能は「着メロ16和音」とか、ね。和音戦闘力時代。

「Pメール」「PメールDX」の時代。ひゃあ。一時期、ボクの機種の1行当たりの表示文字数が6文字で、恋人の使っている機種が8文字だったとき。恋人の機種で見たときにキレイに見えるように、脳内で1行8文字な状況を想定しながらメールを打っていたなあ。絵文字を横1列に並べるために8個連続で使ったりしたんだよ。懐かしい。「時間を費やす」そのことが愛情表現だったんですね。ふふー。

Pメールも、PメールDXも、宛先の指定は電話番号なんですよね。それと、自分の番号を非通知にして送信できました。そこでチェーンメールですよ。学年の誰かの悪口を書いたチェーンメールとかなあ、あったなあ。うわあ。

070に続く適当な電話番号を宛先にしてPメールDXを送る遊びもありました。そのまま「メル友」になって、メル友の女の子に会いに行ってみたこともあったな。若い。Twitter の following の人と会うのとでは、ドキドキの種類が違うと思います。ひゃあ。懐しい。

写真は、最初に持った PHS から、iPhone のふたつ前の携帯電話まで。ボクの交友を支えてくれた歴代の機種たちです。

歴代のPHSと携帯電話

1999年。ノストラダムスの大予言。当時の恋人と「死ぬのかなあ」なんて話していました。恥ずかしい。あっはっは。どっこい生きている。

「ポルノグラフィティ」のデビュー、「嵐」のデビュー、がこの時期です。ラルクは、アルバムを2枚同時リリースしていて、ノリノリでした。女の子とカラオケに行くと、ほとんどの子が「浜崎あゆみ」を歌っていたのです。「ゆず」も人気で、自分のまわりでも、ストリートライブがずいぶんと流行っていたと思う。夜、ギターを持って駅の地下道のところに行く子、学年に何人もいましたよ。

3年生くらいの頃かな、PHS じゃなくて携帯電話を持つ子が増え出して、そうそう、DoCoMo の i-mode が出た頃ですね。友達はフクロウのキャラクターのストラップをつけていたっけな。i-mode に3種類のキャラクターがいて、そのうちのひとりがフクロウだったと思うのだけれど、当たっているかしら。

ACIDMAN、HY、モンゴル800、ロードオブメジャー、BUMP OF CHICKEN、BEAT CRUSADERS、GOING STEADY、ASIAN KUNG-FU GENERATION、ELLEGARDEN。2002年くらいかな。仲の良かった友達の影響で、メロコアをよく聴いていた。

学校の演習室にはパソコンがずらっと並んでいて、気が付いたら、いつの間にか「Google で調べ物をする」って行為は当たり前になっていて、最初がいつだったかなんて、まったく思い出せないなあ。はじめて Google にアクセスしたのは、いつなんだろう。どういったキッカケでアクセスしたんだろう。今みたいに、電車の中のテレビモニターで Google を紹介くれるわけじゃなかった当時、自分はどうやって Google を知ったのだろうか…。

学校の友達の多くは、自分よりずっとずっとパソコンやインターネットに精通していた。高等専門学校の同期で、同じ寮で生活していたまぐろちゃんのお部屋におじゃましては、パソコンのお話をよく聞かせてもらっていた。ハードウェアのお話も面白かったし、ディスプレイに映る種々のソフトウェアのウィンドウも分からないものだらけで、いつも「難しいことをしているなあ」ぐらいの感覚で見ていた。

卒研の進捗日誌はね、HTML で書いて研究室の Web ページに載せることになっていたんだ。だから、ちょっとだけ、HTML を書いたりしていました。たぶん br とか hr を多用していたなあ。きっと当時は p の使い道を分かっていなかったと思う。同じ学科の女の子で、すごくキレイな Web ページを作る子たちが、何人かいたっけな。「きれいだなあ」って思って眺めるくらいで、それ以上の詳細を調べようとか、当時は思わなかった。今の自分につながる道は、このときにはまだ、拓けていないのですね。

大学

高等専門学校を卒業して、大学の3年次に編入しました。

初めてパソコンの自作に臨んだのが、大学3年生のときでした。パーツを一式揃えて、組み立てて、電源を入れる。プラモデルみたいな感覚でね、安く済むからってことで挑戦して、成功しました。そこからハードウェアに興味を持つ、ってこともなく。すっと挑戦してすっと終わりました。

インターネットは「調べ物のためのもの」として、すっかり日常に定着していて、色んな Web サイトを見て回ったり、オンラインゲームに夢中になったり、興味本位で「Winny2」を試してみたりしました。当時は Windows 2000 を使っていたのかな、何度もウィルスに感染して、何度もリカバリしましたね。「何かあったらリカバリすればいい」と思っていたので、恐怖がだんだんとなくなっていって、色んなものを踏みました。

ちょっとずつ、ちょっとずつ、パソコンやインターネットに関する知識が身に付いていったのが、この時期です。21歳くらいのとき。

大きな転機が訪れるのは、大学4年の、研究室配属のときでした。今も一緒に活動している @kei_s さんと同じ研究室に配属され、多大なる影響を受け、そこから一気に「Web が面白すぎる…!」と感じるようになり、Web にのめり込んでいくのです。

このときようやく、自分にとっての Web が「便利な図書館」から「面白い人がいて、面白いことが起こる場所」に変わっていきました。

大学4年生の、卒業論文。研究室の同期が4人いて、みんな、Web から収集した実データを解析するような研究内容でした。今までに見たこともなかったようなデータがそこにあり、今までに考えたこともなかったようなことについて議論し、本当に刺激的な日々でした。データには「世界の形」が見えました。2005年くらいのことです。ちょうど日本でも「Web 2.0」というフレーズがバズワードになり、業界には独特の熱気がありました。

mixi が大好きでした。友達からの招待を受けて、登録しました。ID は 849530。つまり、849530番目に登録したんですね。この頃は、今みたいに Web 業界に知り合いがいるわけでもなかったので、なかなか遅めの登録です。やっぱり昔から、自分の興味対象は「人」だったので、人がいる Web ってのが面白くて仕方なくて、たくさんの友人を mixi に招待しました。登録から半年くらいは、1日も欠かすことなく日記を更新していました。

卒論の完了を待たずして、「Web で面白いことをしたい…!」という気持ちがどんどんと強くなっていきました。

大学院

卒論発表会が終わった直後に、レンタルサーバを借りました。Web アプリケーションを作って動かしたいと思っていて、まずはできることからということで、一気に準備を進めました。

大学院1年生のとき。そのサーバに WordPress をインストールし、このブログの前身である「cameraLady」というブログサイトを、自分の誕生日にオープンしました。2006年6月29日のことです。

もう、とにかく Web のことを考えて日々を過ごしていました。

はてなブックマークの人気エントリをひたすらチェックし、面白いブログを見つけては RSS リーダに登録する。当時は Web アプリケーションを「個人で作りました」と言うだけで、けっこう注目されたんですよ。「だけ」と書きましたけれど、自分にはその能力はなくて、強い憧れを抱きながら変わりゆく Web の景色を眺めていました。自分も面白いものを作りたいなぁと、いつも思っていて。

そんな自分にとってありがたかったのが、Greasemonkey でした。ちょっと JavaScript を書くだけで、面白いことを実現できる。ぜんぜん JavaScript のことを理解できていないのに、とにもかくにも、動くモノを作ることに対して必死でした。そうしていくつか Userscript を作って、そのたびにブログに書いて、たまに誰かから反応をいただいては、身を震わせて喜んでいた。

この頃になると、もう、今とそう変わらない日々を過ごしていたんですね。

そうして、いつだったか作った Userscript のことをブログに書いて、初めてはてなブックマークの人気エントリに入って。たくさんの人から反応をいただいて。ボクは、Web を自分の活動の場所にしようと静かに決心しました。

写真は、今の会社の、立ち上げ時期の頃のものです。オフィスにはまだ何もなくて、それぞれが想う未来だけがあって。

今日まで

大学院を卒業して、上京しました。東京にくると、自分のブログを読んでくれているたくさんの人に会えました。「東京にきたばっかりで、友達がいなくてつまらない」なんて時期は、自分にはなかったのです。Web に感謝しています。

それから、Web にも色々ありました。Twitter、Tumblr、Ustream が登場して。iPhone が世に出てからは、Foursquare なんてものも登場しました。Dropbox や Evernote のような便利な同期ツールも、すっかり日常に溶け込んでいます。

だけれども、ちょっとずつ興味の向き先が変わることはあっても、Web に身を置こうと決心した大学院時代から、大きくは変わっていません。スキルは少しずつ身に付きました。知識も少しずつ身に付きました。簡単なモノなら、作って動かすことができるようになりました。自分の日々の生活のけっこうな部分を Web に記録しながら生きています。毎日が刺激的で、とても楽しいです。

この時代に生まれてよかったと思っています。Web に、とても感謝しています。Web を通じて出会えた人たちに、とても感謝しています。Web がなかったら… と考えると、ちょっと気が重くなることがあって。Web があってくれて、よかったな。今の自分の生き方が許される時代に生まれて、よかったな。どうもありがとう。

まとめ

冒頭では「メディア」「デジタル」「インターネット」を中心に書く、と言いました。だけれども、そもそもインターネットに触れるのが、20歳近くになってから、なんですよね。こうして改めて思い返してみると、小中学校の頃は、テレビ番組やテレビゲーム、漫画や J-POP が教室の話題の中心にあったのだと、再確認できました。

うちの次男ちゃんが1989年生まれなもので、オリジナルのエントリの @haruna26 さんのお話、雰囲気は、ちょっとだけ分かるんですよ。「カクレンジャー」は、次男ちゃんと一緒に見ていて、自分も大好きだったなあ、とかとか。

1989年生まれの人に、話を聞きたいなって、最近はずっと考えています。 教えて教えて。

デジタルネイティブじゃない1989年生まれのわたしの話 – はみだし

ボクも、@haruna26 さんと同じように、同年代の人のお話を、いっぱい聞きたいなって思っています!

教えて教えて。

そんな自分だから、g1983ers のみんなと過ごす時間は、上手く説明できないんだけど、とにかく心地良くて楽しいのだろうな。また遊ぼう。


「専門学校」との表記は不適切と判断し「高等専門学校」に書き換えました。ご指摘ありがとうです。

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