どうも、アラサー独身男性のじゅーんです!最近、平成生まれの子に罵られることが少しずつ増えてきていて、また、年上男性好きの女の子のことを「昭和専」と呼ぶことがあると知って愕然としました。
いつまでも「自分は若い!」と思っていたくても、時の流れは留まることを知らず、もう若い子を相手に若さで対抗しても仕方がないと気が付きましたので、中途半端に長く生きてきてしまった自分ならではの感性でこのエントリを書いてみたいと思います。
ウェブとぼくの10年
ときは、2012年。今から10年前というと、2002年です。「世紀末〜!」とか「ミレニアム〜!」とか騒いでいた時期も落ち着いてきた頃。
さて、ウェブのここ10年は、というと。これは、2〜3年前に、とあるプロジェクトを進めていたときに整理した図です。いくつかのウェブアプリケーションを「開始年」で整理してあります。
現在のぼくが毎日の中で使用している iPhone というデバイスは、2002年には存在せず、この図でいうと「Google Maps」「Gmail」「YouTube」「Twitter」「Facebook」「GitHub」「Dropbox」も、まだ生まれていないわけです。今の自分からすると、10年前の自分がどのように生活していたのか、いまいち思い出せない感じです。今の毎日を支えているものがなさすぎて、それこそ「水道も電気もガスもない世界」と言われてしまうような感覚に近いものがあります。
それくらい、この世界の、この業界の「10年」というのは、劇的な変化とともにあるのだとあらためて認識させられます。
劇的変化は直線的だろうか
さて、ここから、表題にも掲げた「揺り戻し」に触れていきましょう。前節で述べた「世界の劇的変化」は、過去から未来に向かって直線的に起こっているのでしょうか。ぼくは「NO」と感じています。ある軸で見たときには、端と端の間をいったりきたりしているようにも感じられますし、また別の軸で見たときには、同じところをぐるぐると巡っているようにも見えます。
ここで、お友だちのツイートを引用します。
AppStore にあるブログアプリのレビューに、「ツイートするほどでもないことを残せて楽しいし、簡単便利」って書いてあってカウンターカルチャーすぎた。
— Yoichi Fujimoto ® (@wozozo) October 5, 2012
そうそう、この世界を10年も前から見てきたぼくの感覚からすると「ブログに書くほどでもないこと」を気軽に投稿できるのが Twitter だったわけで。いやはや、本当にカウンターだなあ、と。同感です。だけれども、これは「こっちが正しい、こっちは誤認だ」というお話でもなく、揺り戻しが起こっているのだと考えました。
ここ数年の間に、ソーシャルネットワーク系サービスの文脈で「◯◯◯疲れ」といった言葉が用いられることは、何度もありました。これは「古い方のサービスは疲れやすくなっていて、新しい方のサービスはより疲れにくいものだ」というよりは「人が多く集まっている場所では、気遣いしなければならないことが多い」「関係が長期間に渡ってくると、トラブルの歴史も積み重なってくる」といった、人間社会側の要素も強く影響していることでしょう。
だとすると、ただ単に「あるところで疲れたから、次の場所に行く」という移民を繰り返しているだけであって、どこかに向かってまっすぐに進んでいるというよりは、ある領域内で遷移が起きているだけかもしれません。
メインストリームに対するカウンター
少なくともぼくにとって、いま「ソーシャルメディア」と呼ばれているような類のものは「マスメディア」に対するカウンターとして位置付けられてきました。たとえば以下のような感覚があります。
- ブログの台頭によって、本屋さんに並んでいる書籍の情報だけではなく、もっと多くの個人の意見にも触れることができるようになった
- 両手で数え切れてしまうほど少ない選択肢しかないテレビ番組に支配されるのではなく、YouTube で、本当に自分の興味に合ったような動画コンテンツを楽しむんだ
ところが、今の若い世代の子たちの認識は、必ずしも、そうではないようで。例として YouTube を挙げてみても、彼ら彼女らにとっては、YouTube はすでにメインストリーム側として定着していて、別に新しい時代の幕開けを感じさせるカウンターパートなんかではない、といったお話を聞いたことがあります。このあたり、もっともっと、新しい世代の子たちの生の声を集めたいところではあります。
絶対的な価値、相対的な価値
ぼくなんかは、自室にテレビがないので、テレビ番組を見ない生活にすっかり慣れてしまっているのですが、中学校時代は、思い切りテレビっ子でして。テレビ番組をしっかりチェックしては、しっかり観て、中学校の教室で、友だちとの共通の話題として「テレビ番組の内容」を活用していました。
ウェブ時代になって、たしかに好きなときに好きな動画コンテンツを視聴できるようになったけれども、身のまわりで誰も観ていないようなものを観るだけだと、話題にできなくてつまらないなぁと思います。音楽に関してもそう。「好きなときに好きなものを」に価値を感じていたはずなのに、その先には Turntable.fm や PicoTube や「アメーバピグのピグチャンネル」で、わざわざ同じ時間に同じものを消費して盛り上がっているわけじゃないですか。これは揺り戻しだなぁ、と。人類全体で、あっちにいったりこっちにいったりしている感じ、あります。
絶対的に「こっちの方が楽しいぜー」なんてものは、なくて、相対的に「今までとは違って新しいんだぜー」という興奮が時代をこえて続いているだけなのかなぁ、と思いました。
もう一度「Web 2.0」の夢を見るのか
ここまでは「自分の生活がどう変わったか」「文化はどう変わったか」みたいなお話を書きましたが、最後に、ちょっとだけテクノロジーのお話をします。
ぼくが「うわー」という気持ちで読んだのが「アプリの終わりの始まり」というエントリです。10年前になくて、現在では当たり前になっているもののひとつが「スマートフォンアプリ」です。リンク先は、スマートフォンアプリについてのお話なので、興味のある人はぜひ読んでみてください。
ユーザーはアプリをウィンドウショッピングし、見つけ、試用し、ダウンロード/インストールし、利用し、アップデートし、最後はアンインストールするという管理作業に膨大な時間的・経済的コストを費やしている。Jenson氏は「アプリの管理をユーザーに委ねれば、ユーザーにかかる負担は確実に増加し続けることになる」と述べている。現行のアプリ・システムはまだ何とか維持できている状態だが、今後、アプリの数が2倍、3倍、さらには10倍に増えればもはやサステナブルではない。このように「アプリの海」の問題は現在進行形で深刻化している。
ユーザーがアプリの管理から解放され、ジャスト・イン・タイムかつ一度限りの「使い捨て」のサービス利用スタイルが主流になるのではないか、という主張がポイントである。
書いてあることはとてもおもしろくて、今日もこれから、手元の iPhone 及び iPad から使っていないアプリを削除しようと思っていたところなので「たしかにアプリの管理って面倒だよなー」とおおいに共感します。
あとは「iPhone と Android の両方に対応するために、別々にアプリをつくる」ってのも、なんだかなーという気持ちが強くて、考えるたびに頭が重くなります。
そいで、10年前から8年前くらいの、当時の異様とも言える興奮を思い返して思うのは、やっぱり「ウェブでいいんじゃないの」ってことなんですよ。引用先のエントリに書かれている Jenson さんの「ジャスト・イン・タイム」って、ぼくらが熱狂した Web 2.0 の「End of the Software Release Cycle」で語られていたことと、本質的になにが違うのかなあ。いまいち、主張を読み取り切れていない感じ。
- インストールしてアップデートして使うんじゃない
- 必要なときにアクセスして価値を享受する
- ウェブブラウザだけあればよい
- OSごとの違いを意識せずに同じ体験を得られる
今にして思ってみても、これらの特徴には夢があると思うし、ぼくはこっちの方向に未来を感じていて、自分のプログラマとしてのキャリアも、この未来予想に従って組み立てているつもりです。
まとめ
ここ10年ほどの「ウェブと、技術と、それらをまとった自分の日々」のことを思い返しました。毎日のように、新しい技術が生まれ、それらはしばしば「発展」という言葉で語られる一方で、日々の生活は「発展しているのか」と問われると、相対的に「変遷」しているだけなんじゃないかなぁと思ったりもしました。
それと、やっぱりぼくはウェブが大好きです。ウェブのアーキテクチャもそうですし、その上で進行しているたくさんの物語に、今日も心が躍っているからです。もうしばらくは「ウェブエンジニア」として生きていくことになりそうです。