#june29jp

ナニカとナニカを交換するときのコミュニケーション

2012-05-26

ソーシャルアニマルであるところの人間は、よっぽど山奥にこもって人との接点を断って暮らすでもしない限り、日常的に「交換」をして生きる動物です。思い切り広く捉えれば、呼吸や食事も「交換」の一種なので、他者が存在する世界に生を受けるということは、本質的に「交換を強いられ続ける」ことと言えるかもしれません。

最近、そんな「交換」について思うことがあったので、今の気持ちを書き記しておきます。

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(2009年の「june29&いがいが合同お誕生日呑み会」の写真)

「交換」というコミュニケーション

交換には必ず「2人以上のプレイヤー」が必要です。便宜上、単位は「人」として書きましたが、プレイヤーが人間である必要はありません。

双方のプレイヤーが「ナニカ」と「ナニカ」をお互いに差し出して、それらを入れ換える。これが交換です。このとき、お互いがその「ナニカ」を「ナニである」と捉えるかは、それぞれのプレイヤーに託されていて、その認識にズレが生じたときにはトラブルが発生するのだなぁ、というのが、最近になって、強く思ったことです。

だとすれば、交換というコミュニケーションをトラブルなく進めるためには、事前に「ナニとナニを交換するのか」というプレイヤー間の認識をなるべく揃えておくのがよいでしょう。

交換に対する認識がズレていると感じる例

以前、安価を売りにしている牛丼のフランチャイズ店でごはんを食べていたとき、来店していたおじいちゃんが、店員さんの接客態度に対して大声で文句を言っていました。ぼくは「この値段のお店に、そこまでの接客を求めるのは過剰だなあ。ちやほやされたいなら、高級店に行った方がいい」と心の中で思いました。ぼくは「高額ではないお金」と「満腹になるまで食べられるごはん」を交換しているつもりだったので、一切の不満を抱きませんでしたが、あのおじいちゃんは、支払ったお金を「もっと上等な接客」を交換したつもりだったのでしょう。その認識が店員さんとの間でズレていて、トラブルになりました。

パワーポップ系のバンドをテーマとしたアイドルグループ「TOKIO」の「フラれて元気」という曲には「ひとこと言わせてもらえば ありがとう 金返せ」という歌詞があります。フラれた男は「お金を出す」ことで「交際を継続する」を得ようとしていて、だけど、フラれてしまうことになったので、だったら「お金を返せ」という発想に至ったのでしょう。

ことさら、無形のものに関する認識を合わせるって、とてもむつかしいですよね。だからこそ、それは「むつかしいものである」と覚悟を決めて向き合わないと、不要なトラブルを起こしかねません。

トラブルを避けるためにできること

当事者にできること

交換に関わる当事者としてのプレイヤーにできることは「自分が差し出すもの」と「相手が差し出すもの」を正しく認識して、その上で「自分もしっかりと得をできるか」を確認することでしょう。

過度な期待は、未来の自分にとっての「落胆」を生みやすいですし、交換の条件が途中で変わるかもしれない「例外」も意識しておかないと、トラブルの種を見過ごします。

仲介者にできること

誰かと誰かの交換を促す仲介者になる人は、当事者たちの間の認識が合うように努めるべきです。

交換に伴う副作用

「A」と「B」の交換を終えたときには、おまけとして「AとBを交換したという事実」もゲットすることになるので、覚えておくべきでしょう。それによってくっついてくるもの・失ってしまうものも、あります。

本題

ソーシャルなんちゃらの課金にしても、クラウドファウンディングにしても、そこのところの「認識合わせ」が不十分なためにトラブルになったんじゃないの、という印象です。「お金」と「無形のもの」の交換は、むつかしいですねえ。

特に「判断能力が充分に高くない場合が多い、若い子や幼い子」をむつかしい判断が必要な状況に立たせて、その判断に伴う副作用が彼ら彼女らに襲いかかってしまう状態は、そこに関わる大人たちがなんとかするべきだと感じます。

まとめ

交換はコミュニケーションの一種です。「自分が差し出すもの」「相手が差し出すもの」「伴う副作用」の3点を事前にしっかりと認識し、また、相手との認識を合わせて、不要なトラブルが起こらないようにしたいです!ぼくは不要なトラブルに関わりたくありません!こわい!

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