#june29jp

自分の頭で考える機会を奪われるということ

2017-12-25

「考える機会を奪うのは、よくないことだ」という考えは、特にマネジメント論を読み漁っているとよく出会うでしょうか。続いて「そうすると部下が育たなくなる」といった文が添えられているのを何度か見たことがあります。

ただこれは、立場が相対的に上の人から相対的に下の人に対してだけではなく、逆のパターンもおおいにありえるのだと最近は思うようになってきました。

たとえばあなたがとある族に属していて、メンバー全員で族長をヨイショしまくったとしましょう。そんでもって族長もまんざらじゃない受け止め方をして、いい気分になって、自分をヨイショしてくれる民ばかりでまわりを固めるようになりました。そうしてだんだんと族長はまともに考える力を失い、族をよくない未来へと導いてしまったのでした…。

ウオォオォオォオォーッ

どんな立場の人であっても、考える機会を奪われ続けたら、考える能力を失って、ダメになってしまう可能性を有していることでしょう。「自分の頭で考える」を「自分の足で歩く」に置換して考えてみると、もっとわかりやすいですね。足の筋肉が衰えたら歩けなくなりますから。

また、ダメになっていく速度は、コミュニティがクローズドであればあるほど速いように思います。外界とつながっていればそこで考える機会が生じるからだ、と考えればすんなり納得できます。

これはぼくの偏見もあるでしょうが、不必要に「先生」と呼ぶのも、やんわりと考える機会を奪う行為のように思えます。なんでしょうね、二者の関係をわかりやすく「上と下」に規定するからでしょうか。もっとフラットにフィードバックしあえばよさそうなところに「先生」という呼称が当てられるだけで、呼ばれる側の方が一方的に正しいかのような錯覚を引き起こして、まともに考える機会を少しずつ減らす印象があります。そう捉えるようになってから、漫画家さんを「先生」と呼ぶことをやめました。めちゃくちゃ尊敬していても「荒木飛呂彦さん」と呼んでいます。

「考える力のない、小さな子ども」と「考える力のない、剛腕な大人」であれば後者の方が迷惑なのは明らかです。剛腕の代わりに権力を与えてみても同じでしょう。世の中にそういう状態の人が増えれば増えるだけ面倒事が増えるでしょうから、ひとりひとりが自分の頭で考えていく姿勢を維持するのは大事だと思います。機会を奪われるのも奪うのも悲惨なことです。

あなたは、誰かに考える機会を奪われていませんか?奪われているようなら、取り戻しましょう。

あなたは、誰かの考える機会を奪ってしまっていませんか?もしそうなら、きちんと返しましょう。

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