#june29jp

書籍「サピエンス全史」の上巻を読んだ

2017-12-06

サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 | ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 | 歴史学 | Kindleストア | Amazon

先日の「アメトーーク!」の読書芸人の回で Mr.ビーンbot @kazlaser さんが紹介していて、おもしろそうだったので電子書籍版を買って読んでみました。だいぶおもしろかったのでテンション高めに感想を書きます。

社会に対する興味

ガラスの10代後半、情報工学を専攻しつつもアルバイトは接客業ばかり選んでいたし、イマイチ「情報工学と自身の人生」の接点を見つけられずにいたこと。それが20歳を過ぎて、世間が「Web 2.0」と呼ばれる潮流に沸き、ウェブが一気にソーシャル化していった時期にようやく自分がプログラミングをする意義に気付いて、のめりこんでいったこと。

ぼくはきっと「多数の人々のインタラクションから成る、社会」というものに強い関心があります。大学〜大学院時代に「複雑系」という領域に惹かれたのも、思い返してみるとすごく自然なことに感じられます。

小中学生のころのぼくにとっては、社会の授業ってのは単なる暗記科目だったんだよなあ。おもしろさに気付けていませんでした。それが今では、社会と呼ばれるものやそこで起こるアレコレを観察し、楽しむようになりました。だから、この本に向かって手が伸びたのも、なるほどなあという感じです。

常識とか伝統とか

書籍の最初の方に載っている歴史年表は「135億年前」から始まっています。紀元前の話もたくさん出てきて、数千年から数万年のスケールで物語が語られます。

そうすると、たかだか直近数十年のログに根差した「常識」だとか「伝統」だとか、あまり真面目に向き合うものでもないのかな、という気持ちになれました。ときに、自分の感覚の正当性を主張するための後ろ盾として、あるいは、自分が思考を放棄したいがために「常識」「伝統」といった便利フレーズがふりかざされるときがあって、その度にぼくはウームと唸るはめになるのでした。だけどもう大丈夫。大袈裟に気に病むことはなさそう。

仮に「常識」「伝統」といった類のものがあったとしても、時の流れとともに変化していくもの。変化を恐れずに、そのときそのときでちゃんと自分の頭を使って考えていけばよさそうです。

農業革命 (第5章〜)

ぼくはなんとなく漠然と、人類の生活レベルってのは右肩上がりにいい感じになってきたものだと思っていました。だけどそうではないらしい。

だが、一万年ほど前にすべてが一変した。それは、いくつかの動植物種の生命を操作することに、サピエンスがほぼすべての時間と労力を傾け始めたときだった。人間は日の出から日の入りまで、種を蒔き、作物に水をやり、雑草を抜き、青々とした草地にヒツジを連れていった。こうして働けば、より多くの果物や穀物、肉が手に入るだろうと考えてのことだ。これは人間の暮らし方における革命、すなわち農業革命だった。

(Kindle の位置No.1478-1481)

ほうほう。

かつて学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。進化により、しだいに知能の高い人々が生み出された。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。

だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。狩猟採集民は農業革命のはるか以前に、自然の秘密を知っていた。なぜなら、自分たちが狩る動物や採集する植物についての深い知識に生存がかかっていたからだ。農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。

平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。

では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。

(Kindle の位置No.1507-1523)

ぼくたちは動植物に家畜化されていたんですね…!

雑にまとめると、農業革命によって「手に入る食糧の総量を増やすことに成功した」し、それから「種の個体数も増えた」けれど、各個人の生活が楽になったかというと、ぜんぜんそんなことはなかったと。しかも、こういった狩猟採集スタイルから農耕スタイルへの変化は何世代にも渡って徐々に進行していったので、渦中にいた当人たちは「生活が大変になっている」という自覚も持てなかったと。

これを2017年を生きるビジネス戦士たちの日常にあてはめてみると、売上も伸びて従業員数も増えているけれど満足度はむしろ下がっている…といった状況を思い浮かべるでしょうか。あるいは「小麦」を「ソフトウェア」に置換して読んでみても、読み取れるものがありそうです。ふーむ。

想像上のヒエラルキーと差別 (第8章〜)

人類史上のいたるところにヒエラルキーや差別は観測され、またそこに生物学的必然性はない、というお話。

あらゆる社会は想像上のヒエラルキーに基づいているが、必ずしも同じヒエラルキーに基づいているわけではない。その違いは何がもたらすのか? なぜインドの伝統的な社会はカーストによって人々を分類し、オスマン帝国の社会は宗教によって分類し、アメリカの社会は人種によって分類するのか? ほとんどの場合、ヒエラルキーは偶然の歴史的事情に端を発し、さまざまな集団の既得権がそのヒエラルキーに基づいて発達するのに足並みを揃えて、何世代もの間に洗練され、不滅のものとなる。

(Kindle の位置No.2546-2550)

けっこうウッとなる内容が多かったです…。関連しそうな話としては、以前に転校生マインドというエッセイを書いたこともありました。「高校デビュー」「大学デビュー」なんて言葉たちが市民権を得ているところを見ても、いったん定着してしまったポジションというのは「リセット」しないとなかなか覆らないということかと思います。

あとはトランプゲームの「大富豪」のことも思い出しました。富めるものは次のゲームでも勝ちやすくなっていて、しばらくは勝者と敗者が固定されますよね。しかも現実には「スペ3」のようなあえて一発逆転が起きやすくなるようなメカニズムは組み込まれていないのでした。このゲームを「大富豪」とか「大貧民」とか呼ぶ無邪気な残酷さよ〜。

2017年に日本で生活しているぼくは差別的な考えは持ちたくないとは思っていますが、生まれるのが100年前だったら、きっと無自覚に女性を低く見てしまっていたのだと想像します。奴隷が当たり前に存在する時代と場所で育っていたら、きっと考えも染まっていたと想像します。

そうやって考えていくと怖いのは、老後の自分のことですね。最近も、ぼくの2倍くらいの期間を生きている男性が、現在のぼくの感覚では「なんでそんな差別的な発言をわざわざするんだ」としか思えないことを言って、批判を受けて頭を下げていました。ぼくもインプットを絶やさずに価値観をアップデートしていかないと、30年後くらいになんの気なしに放った一言で大変なことになるかもしれません。もしそれが、2017年に言う分にはまったく問題にならない一言だったとしても、です。

最強の征服者、貨幣 (第10章〜)

ついにおでまし、史上最強の宗教との呼び声も高い「貨幣」の登場。

タカラガイの貝殻もドルも私たちが共有する想像の中でしか価値を持っていない。その価値は、貝殻や紙の化学構造や色、形には本来備わっていない。つまり、貨幣は物質的現実ではなく、心理的概念なのだ。

(Kindle の位置No.3246-3248)

ズバーンと言い切ってくれて、実に気分がいいですね〜。そう、貨幣は心理的概念。

いや本当に、2017年にこの書籍の「貨幣」のところを読んでいて、仮想通貨というか暗号通貨のことを思い出すなという方が無理でしょう。人類の社会に貨幣はどのように定着したか、という過去の話として読むのもおもしろいけれど、まさに現在進行形で「定着するのか?しないのか?」と揺れ動いているビットコインたちのことを想いながら読むと連載中の漫画の最新話を読むときのような興奮もあります。

宗教的信仰に関して同意できないキリスト教徒とイスラム教徒も、貨幣に対する信頼に関しては同意できる。なぜなら、宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求めるからだ。

(Kindle の位置No.3357-3359)

美しい文章構造だなあ。

帝国とグローバル化 (第11章〜)

上巻の終盤、帝国のお話もおもしろかったです。

  • 帝国は、ぜんぶまとめて俺が面倒を見るから!幸せにするから!というオラオラ系のノリで他を飲み込んで大きくなる
  • 飲み込むときには、人間たちを大量に殺戮したり迫害したり、文化を壊滅させたりもする
  • それでもバーンと大きくなると社会は安定する
  • 飲み込まれた民族や文明も、やがてその帝国の一部となって成長を助けることになる

ざっくりと、こんな理解であっているのでしょうか…!

こんな調子なので、現代の地球には「純正の文化」と呼べるようなものは残っていないそうです。

アメリカ合衆国という帝国では、ケニア人の血を引く大統領がイタリア料理のピザを食べながら、お気に入りの映画『アラビアのロレンス』(トルコに対するアラビア人の反乱を描いたイギリスの英雄物語)を観ることもありうる。

(Kindle の位置No.3605-3607)

わははは。

人類の文化から帝国主義を取り除こうとする思想集団や政治的運動がいくつもある。帝国主義を排せば、罪に汚されていない、無垢で純正な文明が残るというのだ。こうしたイデオロギーは、良くても幼稚で、最悪の場合には、粗野な国民主義や頑迷さを取り繕う不誠実な見せかけの役を果たす。有史時代の幕開けに現れた無数の文化のうちには、無垢で、罪に損なわれておらず、他の社会に毒されていないものがあったと主張することは妥当かもしれない。だが、その黎明期以降、そのような主張のできる文化は一つもない。現在、そのような文化が地上に存在しないのは確実だ。人類の文化はすべて、少なくとも部分的には帝国と帝国主義文明の遺産であり、どんな学術的手術あるいは政治的手術をもってしても、患者の命を奪うことなく帝国の遺産を切除することはできない。

(Kindle の位置No.3681-3688)

そうですよねぇ。もし今日から「純粋な日本文化のみに触れて暮らしていきます」と言おうとしたら、はたしてぼくの生活には何が残るのだろう?って思っちゃいますもんね。

ところで、ぼくにとっては「帝国」ってあまり身近な言葉ではなくて、アルスラーン戦記将国のアルタイルなどの物語の中に出てくる概念として捉えがちです。「身近なところに帝国ってある…?」ともうちょっとだけ立ち止まって考えてみると、ぼくが今年いちばん「帝国っぽい」と感じたのは Instagram でした。

人間の殺戮や迫害こそしないものの、ソフトウェア・プロダクトの影響範囲の拡げ方は、この書籍で読んだ帝国の姿に通ずるものがあると感じます。ある意味では、いまや Instagram が法であり、Instagram における影響力がパワーであり、カフェも Instagram の方角を見て営業しているわけです。鈍器や刃物や火薬を用いて領土を奪い合う戦いは減ってきたものの、テクロノジをぶつけあってシェアという領土を拡大するための戦いは、この瞬間にも進行しています。

今年に限定せずに直近10年くらいのスパンで考えてみると、Google、Amazon、Apple 等を見て「帝国じゃん」と感じることもできました。まあ、よく言われていることでしたね。ぼくの感覚がみなさんに追いつきました。

まとめ

ふとしたきっかけから、書籍「サピエンス全史」の上巻を読みました。けっこうボリューミィなので、読むのが遅いぼくはやや苦労しましたが、おもしろくて最後まで読んじゃいました。下巻はどうしようかなあ。下巻の目次を見てみると「科学革命」「資本主義」「文明は人間を幸福にしたのか」などなど目をひくフレーズが多いですね… 年末年始にでも読めるといいかな。

読んでいる途中で一度「これ、日本語で書かれた本だっけ?」と思ったときがあって、それくらい自然に読める翻訳です。めちゃくちゃ丁寧な仕事だと思います。

だいぶおもしろい書籍なので、いまさらですがぼくからもおすすめしておきます。ごちそうさまでした。

サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 | ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 | 歴史学 | Kindleストア | Amazon

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