#june29jp

書籍「サピエンス全史」の下巻を読んだ

2018-12-05

上巻を読み終えて、下巻はどうしようかな〜と思いながらそのまま半年くらいを過ごし、そのあと「読書が捗らない期」に突入して、それが明けて「またなにか読みたくなってきた!」と思ったときに手に取ったのが下巻でした。手に取ったというのは比喩で、実際は電子書籍ですけどね。

書籍「サピエンス全史」の上巻を読んだ から、ちょうど 1 年くらいが経ちました。

上巻では「認知革命」「農業革命」「貨幣の登場」「帝国の登場」のお話がありました。下巻には「宗教」「科学革命」「資本主義」「超ホモ・サピエンス」などが出てきます!中世から現代、そして未来に向けてお話が進んでいきます。

以下、読書メモです。

宗教について

「宗教」といったときにぼくらが想像するような、いわゆる特定の神サマ的なやつに祈る「ザ・宗教」とは無縁の生活を続けてきたので、宗教というものがなぜ世の中で必要とされるのか、自分にはよくわかっていませんでした。言葉で説明されたら「なるほど」くらいの感覚は得られるのですが、自分の感覚で心からは理解できていないな〜という感触がずっとありました。

サピエンス全史を読み終わって認識は少し更新されて、今のところは「宗教の存在に必然性は別にない」に落ち着きました。無数に存在していた人類の可能性のうち、宗教によって人類が存続した世界線にぼくが生まれたのだ、くらいに捉えました。

たとえば、100 年後の人類が「お金」をやりとりせずに生きているとしたら、その時代に生まれた人々は歴史の教科書に登場する「お金」というものの意味はよくわからないはずです。「お金のトラブルで人間たちが殺し合った」という事件のことを聞かされても「なんで、そんなよくわからないもののために…」となるでしょう。ぼくにとっての宗教はそんな感じ。

ただ、それが存在したことで世界は大きく動いたのだ、という過去があるというだけのこと。

もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。

うむうむ、今のぼくには納得できるロジックです。

私たちは信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくという、神不在のイデオロギーに区分することができる。

ぼくは「神サマではない、別のナニカ」を信じて生きていると思います。

仏教徒がヒンドゥー教の神々を崇拝できたり、一神教信者が悪魔の存在を信じられたりしたのと同じように、今日の典型的なアメリカ人は国民主義者である(歴史の中で果たすべき特別な役割を持ったアメリカ国民の存在を信じている)と同時に、自由市場主義の資本主義者でもあり(自由競争と私利の追求こそが、繁栄する社会を築く最善の方法であると信じている)、さらに自由主義の人間至上主義者でもある(人間は奪うことのできない特定の権利を造物主から授けられたと信じている)。

ハイブリッド信念や〜!

文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で、人間は図らずもその宿主になっていると見る学者がしだいに増えている。ウイルスのような有機的寄生体は、宿主の体内で生きる。それらは増殖し、一人の宿主から別の宿主へと拡がり、宿主に頼って生き、宿主を弱らせ、ときには殺しさえする。宿主が寄生体を新たな宿主に受け継がせられるだけ長く生きさえすれば、宿主がどうなろうと寄生体の知ったことではない。それとそっくりな形で、文化的な概念も人間の心の中に生きている。そうした概念は増殖して一人の宿主から別の宿主へと拡がり、ときおり宿主を弱らせ、殺すことさえある。雲の上のキリスト教徒の天国という信念や、この地上における共産主義の楽園という信念をはじめ、文化的な概念は、人間を強制して、その概念を広めるのに人生を捧げさせることができる──たとえ命を代償に差し出さなければならない場合にさえ。人間は死ぬが、概念は広まる。このように考えれば、文化は他者につけ込むために一部の人が企てた陰謀(マルクス主義者たちはそのように文化を捉える傾向がある)ではなくなる。むしろ、文化は精神的な寄生体で、偶然現れ、それから感染した人全員を利用する。

それを「文化」と呼ぶ、と。

この考え方は、ミーム学と呼ばれることがある。それは、生物の進化が「遺伝子」と呼ばれる有機的情報単位の複製に基づいているのとちょうど同じように、文化の進化も「ミーム」と呼ばれる文化的情報単位の複製に基づいているという前提に立つ。成功するのは、宿主である人間にとっての代償と便益に関係なく、自らのミームを繁殖させるのに非常に長けた文化だ。

ミームだ。

ゲーム理論だろうが、ポストモダニズムだろうが、ミーム学だろうが、何と呼ぼうと、歴史のダイナミクスは人類の境遇を向上させることに向けられてはいない。歴史の中で輝かしい成功を収めた文化がどれもホモ・サピエンスにとって最善のものだったと考える根拠はない。進化と同じで、歴史は個々の生き物の幸福には無頓着だ。

なるほどねぇ。これは生物の自然淘汰と同じだ。優れているから遺る、というわけではない。たまたま遺ったものがぼくらの歴史になった、というだけか。

科学革命について

過去五〇〇年間に、人間の力は前例のない驚くべき発展を見せた。一五〇〇年には、全世界にホモ・サピエンスはおよそ五億人いた。今日、その数は七〇億に達する。一五〇〇年に人類によって生み出された財とサービスの総価値は、今日のお金に換算して、二五〇〇億ドルと推定される。今日、人類が一年間に生み出す価値は、六〇兆ドルに近い。一五〇〇年には人類は一日当たりおよそ一三兆カロリーのエネルギーを消費していた。今日、私たちは一日当たり一五〇〇兆カロリーを消費している(これらの数字を見直してほしい。私たちの人口は一四倍、生産量は二四〇倍、エネルギー消費量は一一五倍に増えたのだ)。

直近約 500 年間って、すごいんだなあ。書籍は縦書きだからこういう数字の表記になっているけれど、横書きにするとめちゃ読みづらいッスね。

科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。

これはやばい。革命だ。「無知の知」を得たのはわりと最近、ということに驚きました。それまでは「◯◯に聞けばわかる」と特定の地位や役職の人を尊敬するか、あるいは「全知全能の神がすべてを知っている」という認識だったんですねぇ。

とはいえ、近代の文化は以前のどの文化よりも、無知を進んで受け容れる程度がはるかに大きい。近代の社会秩序がまとまりを保てるのは、一つには、テクノロジーと科学研究の方法とに対する、ほとんど宗教的なまでの信奉が普及しているからだ。この信奉は、絶対的な真理に対する信奉に、ある程度まで取って代わってしまった。

ぼくなんかは、全身がこの信奉に染まっていると言って差し支えないでしょうね。

とくに注意を向けるべき力が二つある。帝国主義と資本主義だ。科学と帝国と資本の間のフィードバック・ループは、過去五〇〇年にわたって歴史を動かす最大のエンジンだったと言ってよかろう。今後の章では、その働きを分析していく。まず、科学と帝国という二つのタービンがどのようにしてしっかり結びついたかに注目し、続いて、両者が資本主義の資金ポンプにどのようにつながれたかを見てみることにする。

このあたりの物語の紡ぎ方はおもしろかったです。

コロンブスは、無知を自覚していなかったという点で、まだ中世の人間だったのだ。彼は、世界全体を知っているという確信を持っていた。そして、この重大な発見さえ、その確信を揺るがすことはできなかった。

コロンブスは前時代の人、という主張はおもしろい。アメリカ大陸を「インドだ!」と思って原住民をインディアンと呼んでしまったんだねぇ。かわいい。しゃかりき。

世界の陸地面積の四分の一強を占める、七大陸のうちの二つが、ほとんど無名のイタリア人にちなんで名づけられたというのは、粋な巡り合わせではないか。彼は「私たちにはわからない」と言う勇気があったというだけで、その栄誉を手にしたのだから。

匿名イタリア人はコロンブスとちがって現代的だ〜!

アメリカ大陸の発見は科学革命の基礎となる出来事だった。そのおかげでヨーロッパ人は、過去の伝統よりも現在の観察結果を重視することを学んだだけでなく、アメリカを征服したいという欲望によって猛烈な速さで新しい知識を求めざるをえなくなったからだ。彼らがその広大な新大陸を支配したいと心から思うなら、その地理、気候、植物相、動物相、言語、文化、歴史について、新しいデータを大量に集めなければならなかった。聖書や古い地理学の書物、古代からの言い伝えはほとんど役に立たなかったからだ。

未知の大陸において聖書や言い伝えがほとんど役に立たないと気付くの、現代を生きるぼくからすると痛快なストーリーと思っちゃうな。

これ以降、ヨーロッパでは地理学者だけでなく、他のほぼすべての分野の学者が、後から埋めるべき余白を残した地図を描き始めた。自らの理論は完全ではなく、自分たちの知らない重要なことがあると認め始めたのだ。

いい話だな〜。そしてお話はここから「資本主義」へと続いていく。

資本主義について

人類は何千年もの間、この袋小路にはまっていた。その結果、経済は停滞したままだった。そして近代に入ってようやく、この罠から逃れる方法が見つかった。将来への信頼に基づく、新たな制度が登場したのだ。この制度では、人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に換えることに同意し、それを「信用」と呼ぶようになった。この信用に基づく経済活動によって、私たちは将来のお金で現在を築くことができるようになった。信用という考え方は、私たちの将来の資力が現在の資力とは比べ物にならないほど豊かになるという想定の上に成り立っている。将来の収入を使って、現時点でものを生み出せれば、新たな素晴らしい機会が無数に開かれる。

ふだん何気なく使っている「信用 (クレジット) カード」の源流を見た気持ちになりました。この発見、だいぶ最近の出来事なんだなあ。クレジットの起源について、真面目に考えたこともありませんでした。

近代以前の問題は、誰も信用を考えつかなかったとか、その使い方がわからなかったとかいうことではない。あまり信用供与を行なおうとしなかった点にある。なぜなら彼らには、将来が現在よりも良くなるとはとうてい信じられなかったからだ。概して昔の人々は自分たちの時代よりも過去のほうが良かったと思い、将来は今よりも悪くなるか、せいぜい今と同程度だろうと考えていた。経済用語に置き換えるなら、富の総量は減少するとは言わないまでも、限られていると信じていたのだ。したがって、個人としても王国としても、あるいは世界全体としても、一〇年後にはより多くの富を生み出すなどと考えるのは、割の悪い賭けに思えた。ビジネスはあたかもゼロサムゲームのように見えた。もちろん、あるベーカリーが繁盛することはあるだろうが、その場合には隣のベーカリーが犠牲になる。ヴェネツィアが繁栄するかもしれないが、そのときはジェノヴァが窮乏することになる。イングランド王が富を増すには、フランス王の富を奪うしかない。パイの切り方はいろいろあっても、パイ全体が大きくなることはけっしてありえないのだ。

これにもびっくり。自分は当然のように「より豊かな未来」を想像するけれど、これも現代的な発想だったのか〜!大昔の人も「工夫してやっていけば自分たちの生活は楽になる」と考えて行動していたのだと、勝手に思っていました。

過去五〇〇年の間に、人々は進歩という考え方によって、しだいに将来に信頼を寄せるようになっていった。この信頼によって生み出されたのが信用で、その信用が本格的な経済成長をもたらし、成長が将来への信頼を強め、さらなる信用への道を開いた。

なるほどねぇ。

資本主義は「資本」をたんなる「富」と区別する。資本を構成するのは、生産に投資されるお金や財や資源だ。一方、富は地中に埋まっているか、非生産的な活動に浪費される。非生産的なピラミッドの建設に資源を注ぎ込むファラオは資本主義者ではない。スペイン財宝艦隊を襲い、金貨のぎっしり詰まった箱をカリブ海のどこかの島の砂浜に埋めて隠す海賊は資本主義者ではない。だが、自分の収入のいくばくかを株式市場に再投資する勤勉な工場労働者は資本主義者だ。

資本ってのがなんなのか、理解が深まりました。

資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善である、あるいは、少なくとも至高の善に代わるものであるということだ。

自分はすっかり染まってしまっているなあ。別にこれがすべてというわけではないのに、1983 年生まれの自分は「世界とは、そういうものだ」と思い込んでしまっている節があると気付きました。これは時代に押し付けられた価値観だったのか。

資本主義と消費主義の価値体系は、表裏一体であり、二つの戒律が合わさったものだ。富める者の至高の戒律は、「投資せよ!」であり、それ以外の人々の至高の戒律は「買え!」だ。

ハッとしますねぇ。我々の多くは資本主義の傀儡であり、消費主義の奴隷なのかもしれませんな。

個人のありかたについて

資本主義からつながる話として、「個人」についてのお話もありました。

産業革命は、人間社会に何十もの大激変をもたらした。産業界の時間への適応は、ほんの一例にすぎない。その他の代表的な例には、都市化や小作農階級の消滅、工業プロレタリアートの出現、庶民の地位向上、民主化、若者文化、家父長制の崩壊などがある。  とはいえ以上のような大変動もみな、これまでに人類に降りかかったうちで最も重大な社会変革と比べると、影が薄くなる。その社会変革とは、家族と地域コミュニティの崩壊および、それに取って代わる国家と市場の台頭だ。私たちの知りうるかぎり、人類は当初、すなわち一〇〇万年以上も前から、親密な小規模コミュニティで暮らしており、その成員はほとんどが血縁関係にあった。認知革命と農業革命が起こっても、それは変わらなかった。二つの革命は、家族とコミュニティを結びつけて部族や町、王国、帝国を生み出したが、家族やコミュニティは、あらゆる人間社会の基本構成要素であり続けた。ところが産業革命は、わずか二世紀余りの間に、この基本構成要素をばらばらに分解してのけた。そして、伝統的に家族やコミュニティが果たしてきた役割の大部分は、国家と市場の手に移った。

うわあ、直近 2 世紀くらいの話だったのか。

そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。「親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老らが眉をひそめようとも、何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けないとしても、どこでも好きな所に住めばいい。あなた方はもはや、家族やコミュニティに依存してはいないのだ。我々国家と市場が、代わりにあなた方の面倒を見よう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、職を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか」

「人それぞれ、個人が個人であれることが大事」って価値観も、めちゃくちゃ最近のものなんだな〜。

ロマン主義の文学ではよく、国家や市場との戦いに囚われた者として個人が描かれる。だが、その姿は真実とはかけ離れている。国家と市場は、個人の生みの親であり、この親のおかげで個人は生きていけるのだ。市場があればこそ、私たちは仕事や保険、年金を手に入れられる。専門知識を身につけたければ、公立の学校が必要な教育を提供してくれる。新たに起業したいと思えば、銀行が融資してくれる。家を建てたければ、工事は建設会社に頼めるし、銀行で住宅ローンを組むことも可能で、そのローンは国が補助金を出したり保証したりしている場合もある。暴力行為が発生したときには、警察が守ってくれる。数日間体調を崩したときには、健康保険が私たちの面倒を見てくれる。病が数か月にも及ぶと、社会保障制度が手を差し伸べてくる。二四時間体制の介護が必要になったときには、市場で看護師を雇うこともできる。看護師はたいてい、世界の反対側から来たようなまったくの他人で、もはや我が子には期待できないほど献身的に私たちの世話をしてくれる。十分な財力があれば、晩年を老人ホームで過ごすこともできる。税務当局は、私たちを個人として扱うので、隣人の税金まで支払うよう求めはしない。裁判所もまた、私たちを個人と見なすので、いとこの犯した罪で人を罰することはけっしてない。

わはは。とんだ皮肉ですね。国家と戦う個人ってのは、タイムマシンで過去に行って自分が生まれる前に親を消す、みたいなパラドックスを生じさせるのか。これも考えたことがなかったなあ。自分は「個人」というのは自然発生的なものだと思っていた節があるな、と気付くに至りました。

消費主義と国民主義は、相当な努力を払って、何百万もの見知らぬ人々が自分と同じコミュニティに帰属し、みなが同じ過去、同じ利益、同じ未来を共有していると、私たちに想像させようとしている。それは噓ではなく、想像だ。貨幣や有限責任会社、人権と同じように、国民と消費者部族も共同主観的現実と言える。

まさにそうですね。今日もぼくらはハッシュタグでつながってしまうし、そのつながりに居心地のよささえ感じてしまう。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ。

この二世紀の変革があまりに急激だったために、社会秩序の根幹を成す特徴にまで変化が起こった。社会秩序とは元来、堅固で揺るぎないものだった。「秩序」は、安定性と継続性を含意していた。急速な社会変革は例外的で、社会の変化はたいてい、無数の小さなステップを積み重ねた結果として生じた。人間には、社会構造を柔軟性のない永遠の存在と見なす傾向があった。家族やコミュニティは、秩序の範囲内において、自らの立場を変更しようと奮闘するかもしれないが、私たちは自分が秩序の基本構造を変えられるとは思いもしなかった。そこで人々はたいてい、「今までもずっとこうだったし、これからもずっとこうなのだ」と決めつけて、現状と折り合いをつけていた。

歴史を鑑みると、今の人類に対して「変化を受け入れろ」と強要するのは、なかなか厳しいことなのかもしれませんね。とはいえ変化は決してぼくらを待ってはくれないけれど。

人類の幸福と、超ホモ・サピエンスについて

サピエンス全史の上下巻を通しての「締め」という雰囲気が濃厚になる、終盤へ。

ざっくりいうと、人類史において「革命」と語られる変化もいくつかあったけれど、我々の幸福度はさほど上がっていないようだ、と書いてありました。ほいじゃあ、ぼくらはいったいなにを追い求めてここまでがんばってきたんでしょうね…?

そのうえ、人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進歩してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。

これだけ読むと、はちゃめちゃに悲しい生き物に思えてきますね。

なのでまぁ、ぼく個人の目線でいえば「人類の幸福」なんていう大層なことは考えずに、自分と、奥さんと、北海道にいる親と兄弟と、日常的に接点のある数え切れるくらいの人たちの「日々の、ちょっとした楽しい感じ」を大事にして、毎日を過ごして、ゆっくりゆっくり死を目指して歩いていくという、どこかで聞いたことのあるような人生観でやっていくのがちょうどいいんだろうなって思いました。

サピエンス全史と題された長編を読んで「楽しく生きていこう、っと」という感想になっちゃうんだから驚きますよね。まごうことなき小並感です。

書籍にはちょっとした未来予想も書いてあって、それこそ 2045 年のシンギュラリティとか、超人類みたいなところまで言及がありましたが、それについてこのエントリで言っておきたいことは特になかったので省略します。

まとめ

サピエンス全史の下巻を読み終えたので、読書メモを書きました。

サピエンス全史(下) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

上巻と同様、人類の歴史を知ることで「自分はいったい何者なのか」「自分のこの価値観は、どこからきたものなのか」を見つける手掛かりをたくさん提供してくれる書籍でした。ぼくが「これが自分だ!」と感じてきたことの大半は、別に自分のものではなくて、時代に属するものが多いのだなぁと感じて、ちょっと虚しくなったような、でも肩の荷が下りたような、不思議な感覚を覚えました。

けっこう長いんで自分のように読むのが遅い人にはオススメしにくいですが、中身がおもしろいよ、というのはこうして明記しておきます。興味がある人はぜひぜひ。

…と、ぼくがのんきに読んでのんきにオススメしているけれど、もうホモ・デウスの日本語版も出ています。レビューとかを見て、いちばんいいやつを選んでください。

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